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壁の燭台からの灯りのみが照らす薄暗い廊下をリーナが進んで行くと、だんだんと濃度を増して漂って来る香りが鼻腔を擽った。食事当番はペトラとオルオから始めると決まった終業時のやり取りを思い出す。ペトラは予想通り、オルオは料理をする姿自体想像出来ない、と二人の姿を思い浮かべながら、辿り着いた重い木製の扉を押した。途端にふわりと包み込まれる匂いは本部のものよりも幾分か濃く上質に感じるシチューの香り。



「あ、リーナ!今呼びに行こうと思ってたの!ほら、丁度出来上がったから座って座って!」


班の規模に対して広過ぎる食堂の、端の八人掛けテーブルにエルド、グンタ、リヴァイまでもが揃っていた。ペトラの声に促されるまま慌てて彼らのテーブルの空いた席へと腰掛ければ、深緑のエプロンを身に付けたペトラとオルオがそれぞれトレーにシチューとパンを人数分乗せてキッチンから姿を現した。それらが全員に配られ、二人がエプロンを外して席に着くと全員で食事を始める。シチューは本部で食べるものよりも口当たりが滑らかで濃厚、具も多い様だった。普段口にするものよりも格段に美味しいそれに、無意識にパンよりも集中してしまうのも無理はない。


「美味しいかな?今日運んだ食糧品の中にミルクが少し入っていて、早く使わないといけないけれど飲むのも、と思ってシチューにしてみたの!」

「オルオが、だろ?」

「ちょっ、エルド!!私だって手伝った!」

「ふっ・・・ペトラよ。俺の嫁になるならば野菜を切るくらいは、あうぐっ!」


リーナがポケットに入っていたハンカチを隣でスプーンを置き口を押さえるオルオに差し出せば、気まずい顔をしてそれを受け取り口元を拭っていく。こうも続くと彼のハンカチ係にでもなった様に感じていた。
そこからペトラの神がかり的な料理の下手さや六人兄弟の長男であるオルオの家事の腕前が語られる。家が隣で、ペトラはよくオルオの作る夕飯を彼の家族と共に食べていたという。産まれた時から一緒の二人だからこそ、端からすると物騒な冗談も軽い調子で言い合えるのだろう。やや喧嘩腰で心配になることはあるものの、そこには信頼関係が確かにあるのだと分かりリーナは感激していた。

グンタとエルドが食事を終えスプーンを置いても、言い合ってばかりのペトラとオルオはまだ皿の中身が半分ほど残っていた。ややあって終始黙って話を聞いていたリヴァイが食事を終えてスプーンを置き、取り巻く空気が引き締まる。はたと口喧嘩を止めた二人が急いで残りの食事を口へとかき込むと、最後の一口を飲み込んで食器を纏め片付け始めた。
それを手伝う形で厨房に入ったリーナも食後の紅茶を人数分のカップとソーサーと共にポットに用意し、席へと戻る。食器洗いを終えたペトラとオルオが再び席についた頃、丁度良く全員分淹れ終わり、静かに各々カップへ口をつけた。



「あの・・・ここへは、どのくらい留まるのでしょうか」


エレンがおずおずと口を開く。温かい紅茶を飲み下し、満腹感と相まってほっと一息ついていた面々が少し引き締まった表情を見せると、持ち上げていたカップをソーサーへ戻したエルドが口火を切って発言する。


「我々への待機命令はあと数日は続くだろうが、三十日後には大規模な壁外遠征を考えてると聞いた。
それも、今期卒業の新兵を早々に混じえると」


エレンを連れて出ると決まった次の壁外遠征。その事についてはこの旧本部へと出発する前に行われた会議に兵士長補佐として出席したリーナにも知らされていた。具体的な日程が決まるまで正式な発表は無いのが通例だが噂とは早いもので、既に話題になっていた様だ。


「おいエルド・・・そりゃ本当か?ずいぶん急な話じゃないか。
ただでさえ今回の巨人の襲撃は新兵には堪えただろうによ」

「ふ、ガキ共はすっかり腰を抜かしただろうな」

「本当ですか兵長?」

「作戦立案は俺の担当じゃない。
ヤツのことだ・・・俺達よりずっと多くのことを考えてるだろう」


「確かに・・・これまでとは状況が異なりますからね・・・
多大な犠牲を払って進めてきたマリア奪還ルートが一瞬でも白紙になったかと思えば、突然まったく別の希望が降って湧いた」


エルドの言葉に、自由に発言していた班員達の視線が一斉にエレンへと注がれる。居心地悪そうに表情を固くしたエレンが視線を辿り皆の顔を見回した。


「未だに信じられないんだが・・・"巨人になる"ってのはどういうことなんだ?エレン」


「その時の記憶は定かではないんですが・・・とにかく無我夢中で・・・
でもきっかけになるのは自傷行為です。こうやって手を・・・」


ペトラが僅かに身を乗り出す様にしてエレンの体験を聞く。質問したエルドだけでなく、オルオやグンタの顔にも待っていたと言わんばかりの真剣な表情が宿っていた。エレンを品定めするように生唾を飲んでじっと彼の一挙手一投足に注目する。しかし自傷行為をきっかけに巨人化が起こるのは既に報告書にも記されており、この班の面々と幹部には周知の事実である。


「お前らも知ってるだろ・・・報告書以上の話は聞き出せねえよ。
まああいつは黙ってないだろうが。ヘタにいじくり回されて死ぬかもなお前・・・エレンよ」

「え・・・?あいつとは・・・?」


疑問符を浮かべるエレンにその名が告げられる前に、食堂奥の扉が開く音が木霊した。威勢良く登場したすらりとした体躯の長身がその気分を表す様に軽快な足取りでエレンへと迫る。


「こんばんはーリヴァイ班の皆さん。お城の住み心地はどうかな?」

「あいつだ」

「ハンジ分隊長!」


エレンの反応に応えてハンジがにこやかに空いた椅子へと腰掛ける。眼鏡の奥の瞳がいつにも増して輝いている様に見えるのは薄暗い食堂の明かりのせいだけではないだろう。リーナもエレンの巨人化の話を知ってから、ハンジが放って置くわけが無いと踏んでいたので、リヴァイの発言の主旨は十分理解出来た。


「私は今、街で捕らえた二体の巨人の生態調査を担当しているんだけど、明日の実験にはエレンにも協力してもらいたい。その許可をもらいに来た」

「実験・・・ですか?オレが何を・・・?」

「それはもう・・・最高に滾るヤツをだよ・・・!」


エレンを除く班員全員の予想通り、ハンジは頬を紅潮させ鼻息荒く熱弁する。嫌な予感に皆一様に腰を浮かせるギリギリの姿勢だが、リヴァイが未だ席についている以上、先に席を立つのは憚られた。リーナはペトラ、エルド、グンタ、オルオの順にアイコンタクトを取るが皆お互いを見つめており思う事は一つの様で、小さく頷き合うと未だ続きそうな会話に注意を払うべくエレンに注目する。


「あの・・・許可については自分では下せません。自分の権限を持っているのは自分ではないので」

「リヴァイ?明日のエレンの予定は?」

「・・・・・・庭の掃除だ」

「ならよかった決定!!エレン!明日はよろしく!」

「あ、はい・・・」


リヴァイもハンジの興奮具合には気付いているようで、一瞬の逡巡の後抵抗は諦めた様だった。
ハンジが身を乗り出してエレンに手を差し出し、握り返されるのを待たずに彼の手を握り締め振り回す。エレンは何が何だかと書かれたような顔でハンジを見つめた。


「しかし巨人の実験とはどういうものですか?」


瞬時に空気が凍る。リーナはその音さえ聞いた様な気がしていた。咄嗟に反応できない皆に代わりオルオが隣のエレンを肘で小突くがエレンにその意味は伝わらないだろう。


「ああ・・・やっぱり?聞きたそうな顔してると思った・・・」


冷や汗をかきながらどうしたものかと皆で動揺しているところに、リヴァイが立ち上がり椅子が動く音がする。好機とばかりに皆一斉に立ち上がり、部屋を出る彼に続いた。振り返り扉が閉められる前に隙間から見たエレンの顔はまたも何かよく分かっていないような表情であった。






「話があるらしいな」


先を歩くリヴァイが口を開き、その後ろを着いて来ていたリーナは自分に問われたのだと分かり肯定する。立ち止まり振り返った彼が全員に今日は休むよう伝え、リーナには部屋に来るよう指示を出す。各々の返事を待たずに踵を返した彼は薄暗い廊下を変わらぬ歩調で歩き出した。



「なに?なになに今の!」
「何だお前!?リヴァイ兵長とまさか」

「お話があるだけ!」


あからさまに誤解しているペトラとオルオにリーナが思わず力強く答えると、流石にそれ以上の追求は無い。それでも好奇心たっぷりの視線を寄越し上官とその補佐の動向を気にする四人から逃れる様な心地でリーナはリヴァイを追った。

ただでさえ弱い自分は分不相応な地位に応える事が出来ていない。必要とされないことに慣れるのではなく、必要とされる要素を自分の中に作らなくては。変わらなければ、覚悟を決めなければ、何事も呑気に待っていたら寿命が何年あっても足りない。




「兵長、リーナです」


「入れ」


断りを入れリーナが扉を開けたその先の薄暗い空間は本部よりは狭いながらもソファーも執務机も揃っており、リヴァイは左手のソファーへ腰掛けて書類に目を通していた。目が合うと座るよう促されリーナも向かいのソファーに浅く腰掛ける。


「話か、何だ」


顔を隠す様にして眺めていた書類をばさりとソファーの間のローテーブルに投げたリヴァイは組んだ腕をそのままにリーナの決意に満ちた瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


「はい、まず今回のトロスト区の襲撃について幾つか考えた事がありまして、それを聞いていただきたいのですが」

「ほう・・・いいだろう」


おもむろに足を組み替えたリヴァイをリーナは正面からじっと見据える。聞いてもらう価値があるかと悩んでいた個人的な推測ではあるが、自分の意志を示す為には丁度良い演説となってくれると踏んでいた。


「あの日、鎧の巨人が出現したという報告は無かったと聞いています。一体何故現れなかったのでしょう?より多くの人間を求め壁の内側へと侵攻したいのなら、五年前と同じように内門を破ればいいのに。
初めからローゼへの侵攻が目的ではなく、より多くの人間を殺戮するという事が目的ではないという可能性もあります。が、もしそうならばそもそもトロスト区の壁を破ることもしないでしょう。
そうなれば、"ウォール・ローゼを破りたかったがそれが出来なかった"と考えるのが妥当です」


「ほう・・・鎧の巨人がか?」


「はい・・・
そして"内門を破るつもりが出来なかった"という事は、彼らがその時その時の状況を判断して動いているということになります。鎧の巨人を討伐したという報告もありませんから。
にわかには信じ難い話ですが、思えば超大型巨人はシガンシナ区でもトロスト区でも開閉扉を破り、鎧の巨人もウォール・マリアの開閉扉を破りました。壁の一番強度の弱いところを理解し狙っていると言えますし、何より二体とも、討伐に向かう前に忽然と姿を消したと言われています。人間を喰うことはせずに自分の役割のみを果たし消えたのです。
ですから、超大型が壁を破り、鎧が内門を破るーーー恐らく今回もその予定だったのでしょう。しかし超大型がトロスト区に穴を開けるまでは良かったが、その後不測の事態の発生により鎧が内門を破れなくなった」


「エレン、だな」


「はい。エレンは自分の意思で巨人になることが出来、アルミンが引っ張り出した様にまた人間に戻れる。そしてそれは人類が誰一人予想だにしなかった、まさに不測の事態でした。
そのエレンの能力を借りる事でトロスト区の奪還は成功し、調査兵団が駆け付けた時はまさにその作戦遂行の瞬間だった。そしてそれを見ている限りでは、もう一度超大型が現れたという様な作戦の遂行を妨げる事例は発生しませんでした。折角開けた穴が塞がれてしまうのに、です。
そうすると現時点で考えられるのは、超大型巨人と鎧の巨人にとっての不測の事態とは人類のそれと同じくエレンの巨人化の能力であり、それを目の当たりにして、ウォール・ローゼを破ったりもう一度穴をあけたりするどころでは無くなった、という事。
確実ではないけれど重要なのはーーー超大型巨人と鎧の巨人は知性を有していることから、エレンの様に巨人化能力を持つ人間である可能性があるという事。ならばその二体に知性がある事にも辻褄が合いますし、可能性は限りなく高いと考えています」


「・・・なるほどな。長ったらしく一人で考え込んでいた訳か」


「一個人の推測ですので、お話しするべきかを悩んでいました・・・
そして、これが一番重要なのですが・・・壁を次々破って行く事が敵の目的ならば、壁を塞ぐ事が出来るエレンの存在は邪魔な筈です。ならばエレンの存在を消すか、仲間に引き入れるか、いずれにしてもいつまでもそのままにはしておかないでしょう。すると、エレンの能力を知った超大型巨人と鎧の巨人の元の人間は今も壁内に潜んでいる可能性が十分あり得ると思うのです。
どうにかしてその人間を見つけて捕らえたい」


脳内で組み立てるだけに留まっていた憶測を吐き出したリーナと無言のリヴァイとが暫しじっと見つめ合った後、リヴァイの方がおもむろに立ち上がり机へと移動する。インクの蓋を開けペンを取った手は躊躇わず何事か記すとそう経たない内に止まり、畳んだ便箋が封筒の中へと仕舞われて行く。


「調査兵団でエレンを預かって作戦の要とする以上・・・お前の推測も加味すれば尚更、奴は危険な目に遭う訳だが」



リーナにはリヴァイが中途半端に切った言葉の先が手に取る様に分かった。リヴァイにそう聞かれると想定していたからだ。言葉を紡ぐ事なく互いの腹を探る様な視線を交わし、やがてリーナは一度深く頷く。短くそうかと答えたリヴァイは彼女のすぐ隣に立ちその手元へ封筒を差し出した。


「明日の朝一でこれを持ってエルヴィンの所へ行け。俺の所へは寄らなくて良い。
今の話をもう一度あいつに聞かせてやれ」


リーナがそれを受け取るとリヴァイは再び沈黙する。その指示に異論は無かったが、リーナは大事な何かが抜けている様な気がしていた。しかしすぐには思い出しそうにも無いと立ち上がり、リヴァイへ礼を言うべく口を開きすぐ側の深い色の瞳が視界を掠めた時、その脳裏に審議所での出来事が瞬時に蘇った。


「・・・リヴァイさん」


あの時の暗い瞳、薄く笑った顔。彼にしては珍しく覇気が感じられなかったあの瞬間を思い返して、リーナは深く息を吸った。


「リヴァイさんは幼かった私に優しくして下さいました。ずっと見守って下さっていた、いわば家族の様な存在です。非道徳的な事に目を瞑るというわけではありませんが、貴方の過去がどうであれ私の中でそれは揺るぎません。
その上私は部下としても、貴方の背中を追いかけあわよくば追いつきたい、そして僭越ながらお守りしたいと思っています!
その為の覚悟も技術も、まだまだ足りないとは自覚していますが・・・補佐にしていただきましたから」


一方的に偉そうに喋ってしまった、とリーナが咄嗟に俯くと、前髪で狭まった視界の端でリヴァイの綺麗に磨かれたブーツの爪先が僅かに距離を詰める。軋む音が聞こえそうな程にぎこちなく顔を上げれば、珍しく穏やかな表情を浮かべたリヴァイの大きな手がリーナの頭に伸び、そのまま金髪を一撫でして離れて行く。そしてまたいつもの様に眉根を寄せた表情に戻るのだが、今度はどうも困っているようにも見え、それが何を指してかリーナが考え至る前にリヴァイは踵を返し離れて行った。机に乗る書類の束を手に取り椅子を引いたところで再度リーナを見遣る。


「明日、必ず行って話せ。これ以上用が無いのならさっさとクソして寝ろ」

「は、はい。お時間を頂きありがとうございました!失礼します」





静かに閉じられた扉を見つめ脱力した様に椅子へと腰掛けたリヴァイは深い溜息を一つ吐き、何事か小さく呟いた。そして先程自分に熱弁を振るった彼女の淡く発光する様なライトグレーの瞳が脳裏を掠めては小さな溜息をもう一つ零し、椅子の背に凭れかかって天井を見つめ瞼を閉ざすのだった。









190701 修正


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