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「ねえねえリーナ、兵長と何かあった・・・?」

「えっ!?」


手綱を操り馬を並べたペトラがひっそりと小さな声でリーナへ問い掛けた。リーナがどきまぎしながらもその言葉の根拠を尋ねると、彼女は馬に提げさせた大きな布袋の位置を調節する振りをしつつ二馬身後ろのリヴァイを盗み見ながら、微かな苦笑いを浮かべる。


「兵長、ここ最近ご機嫌が良くないみたいだし、今日はリーナと目も合わせないし・・・
喧嘩でもしちゃったの?」

「うーん・・・どうなんだろう」


リーナ自身、ここ数日のリヴァイとの掛け合いを"喧嘩"と呼ぶのは違うような気がしていた。
そもそもお互いに感情をぶつけて言い合ったりした訳では無い。発端とも言える地下室での事は、彼の言い様に一方的に腹を立ててしまっただけ。そして彼は上官として間違いを叱っただけだ。審議所での事は、エレンを徹底的に痛め付けた事に憤るそれ以上に、ただただリヴァイが暴力を振るう姿にショックを受けたのだ。そして信じられない思いでいたところに彼が自身の過去を暴露し、垣間見えた見た事のない彼に心を痛め乱している。彼に対する怒りはとっくに消えていた。ただ今朝は早くから移動の支度で忙しくお互い言葉を交わさなかっただけの筈。しかし何から話していいか分からないというのも事実で、無意識に彼を避けるように行動してしまっていた気もしている。彼が私に腹を立てていて、避けている可能性も無くはないが。



「なにその微妙な返事。喧嘩ならさっさと謝っちゃった方がいいわよ!心臓に悪いし・・・」

「そ、そうだよね、ごめん」


ペトラの困った様な笑顔が言葉尻で途端に暗くなり、恐ろしいものを思い出す様に身震いまでしてみせた。ここ数日の彼の纏う負のオーラに身が竦む思いがする、とペトラとエルドが言っていた様に、彼の機嫌は相当悪い。



「巨人だか何だか知らんが、お前のような小便臭いガキにリヴァイ兵長が付きっ切りになるなど、っっぐ!」


二人の少し先でエレンに一方的に突っかかっていたオルオが全てを言い終わる前に馬の揺れで舌を噛み悶えていた。血を拭く為のハンカチを手渡されると素直に応じる彼に、これが習慣にはなりたくないなとリーナが小さく笑っていると、唐突に樹木に覆われていた景色が開け趣のある古城が一同を迎える。兵団の規模が小さかった頃のものとは言え本部として使われていただけあり、外観からも部屋数の多さが伺えた。
迂回して厩舎へ各々の馬を繋ぎ、リヴァイとグンタ、エルドは荷物を背負って城の正面へと歩いて行く。それに続こうとリーナが馬から布袋を降ろすと、すぐ隣のペトラやオルオの馬に荷物が括り付けたままであるのに気付いた。二人の行き先を思案しかけてすぐに彼が先程舌を噛んだのを思い出し、馬から布袋を外してそれぞれ自分の背負った荷物とは別に両腕に抱えて井戸まで走る。厩舎の裏すぐ側の井戸の陰でしゃがみ込み口をゆすぐ後ろ姿はオルオだ。隣でペトラが呆れ顔で溜息を吐いている。死ねば良かったのに、と物騒な言葉が溜息交じりに聞こえた様な気がリーナは深く考えないことにした。この二人に関してはそれが通常運転なのだとここ最近で理解し始めていた。
濡れていない石畳を選んで荷物を降ろし、オルオへと近付き屈んでその顔を覗き込めば、出血は止まった様で口周りもすっかり綺麗になっていた。


「血は止まったみたいだね、良かった・・・
舌を噛んじゃうのは昔から癖なの?」

「うっ、うるせえ!好きで噛んでんじゃねえぞ!じろじろ見るな!」


「あんたはもう!なんでそんなにリーナに対して当たりが強いわけ!?
悔しいんだか何だか知らないけどね、そんな子供みたいな事ばっかりしてたら兵長の信頼も得られないわよ!」

「なっ!うるせえバーカ!」



この2人はリーナから見ても本当に仲が良い。以前ペトラが語ったところによると、家が隣同士の幼馴染みで、生まれた時からの腐れ縁というやつだとの事。それを裏付ける様に討伐時の連携は大抵二人で組んでおり、日頃言い合いを繰り返していてもそれが一番効率が良いと彼女自身も分かっているのだろう。二人の生い立ちを語られた際の話し振りからして、結局は互いの事をお互いが一番理解している、という印象を受けていた。
またも言い合いを始めた彼らから離れようとリーナが立ち上がりふと振り返れば、こちらをじっと眺めているエレンが目に入り、一目散に駆け寄る。


「エレン!大丈夫!?傷はまだ痛む・・・?」

「ああ、もう何ともねえよ。あの時は結構効いたけどな・・・」


苦笑いながら何でもない事の様に語るエレンに反してリーナの表情が曇る。脳裏には血に濡れた法廷が浮かび、訝しがるエレンの瞳を直視出来ずに俯いた。


「あの人があんな事・・・」

「え?おまえーーーー」


肩を掴まれ顔を上げれば目を瞠ったエレンと視線がぶつかった。その口が何かを紡ごうとして開いた後すぐ真一文字に引き結ばれると、肩から重みが消え目の前の胸を叩く敬礼の音がリーナの耳に飛び込む。


「おい、本部内の掃除だ。中へ入って最上階から始めろ」


背後から届く聞き慣れた低い声にリーナも振り返り右の拳を胸に当て答えると、エレンが同様に大きく返事する。リーナの想像よりもずっと近い距離に立っていたその声の主は眉間の皺を一層深くし盛大な舌打ちを一つ響かせ、未だに口喧嘩を続けているペトラとオルオの方へと歩き去った。



「こええ・・・
リヴァイ兵長、すごく不機嫌だよな」

「やっぱり・・・そうだよね」

「ああ。何かあったのかな」



リヴァイが目の前に現れた途端機械のように直立し大人しくなった二人を遠目に見遣り再び舌を噛みそうになっているオルオに若干ひやひやしながらも、リーナは未だ敬礼を解かず立ち尽くしリヴァイの背中を見つめるエレンへと声をかけ城の中へと歩みを進めた。







「リーナとエレンはこれな。この棟の上から順に頼むぜ。俺はグンタと窓を片っ端から拭いて来る」


そう言って渡されたのは箒に雑巾にバケツ。どうやら旧本部での初日は掃除で終わってしまいそうだと、リーナは誰にも気づかれる事なく小さく息を吐く。運んだ衣類の中から真っ白な三角巾を取り出すと慣れた手つきで頭と口を覆い、エレンを引き連れ最上階まで階段を上って行く。エレンの方は物珍しげにリーナの装備を眺めていたが、階段を上がるにつれ想像以上の建物の規模に冷や汗を浮かべ所要時間の算段をし始めていた思考を中断させたのだった。
最上階の部屋へと足を踏み入れるとまずは大きな窓が目に入る。しかし日当たりは良いが案の定空気が淀んでいて、ドアを開けた時に舞い上がったであろう微塵が差し込む光に照らされきらきらと輝きながら好き勝手に部屋中を浮遊していた。



「エレン、窓」

「え?あ、おう、そうだな。空気悪いなやっぱり」

「ゆっくり静かにね!」

「あ、ああ・・・」


部屋中が埃を被っているが幸いにも目に見えて黴びたり老朽化している箇所は見当たらない。しかし埃がうっすら積もっていることが見て取れ、リーナは足を踏み入れるのを一瞬躊躇う。そして悩んだ末入り口付近の埃だけを少し部屋の中央に追いやって道を作って行き、部屋の角に立った。


「エレン、その窓の下から壁沿いに始めて、入り口に向かって集めて。丁寧にね?」

「おう・・・」


指示を受けたエレンが手間取りながらも慎重に掃いて進んで行く。リーナも気を取り直し今日中に掃除を終わらせることを目標に集中しようと床全体に陣取る埃を睨み付けた。さっさっ、と箒が床を撫でる音だけが響き、木板が本来の焦茶色を取り戻して行く。



「お前、こんな掃除上手かったか?」

「昔にね、リヴァイ兵長に教えてもらったんだ」

「リヴァイ兵長に?」

「うん。引き取ってもらってすぐ、全然なってないって一から教えてもらったの。
私、お家でお手伝いとかしない悪い子だったからかな?」


部屋の中央へと掃き進めつつ口も動かしていると唐突に音が一つになる。無意識にエレンを見れば手を止め何やら訝しげにこちらを見ているので、どうしたの、と首を傾げて見せる。


「お前、家ではいつも親父さんの後付いて回って手伝いばっかりしてたじゃねえか。掃除だってしてるとこ何度も見た覚えあるぞ?」

「あれ、そうだったっけ・・・忘れちゃってたみたい!」

「忘れてたって・・・
っていうか、兵長がそんなこと・・・」


リーナがはっきりしないエレンの言葉尻を聞き返すも、それは思い出した様に大きな声を上げ向き直る彼自身の声によってかき消されてしまった。


「昨日の事だけど!リヴァイ兵長は俺を調査兵団に預けてもらうためにああしたんだ。俺が暴れても兵長がいれば大丈夫だと周りに示す為に!そうエルヴィン団長やハンジ分隊長やミケ分隊長が言ってたんだ。
だから、兵長は悪くない」



リーナの中で、何かがすとんと着地した様な心地であった。だからエルヴィンは落ち着き払っていたし、ハンジですら騒がず静かに成り行きを見守るだけだったのだ。事前に打ち合わせがされていたから。

彼らからすれば、それを聞かされていない一兵卒がただただ目の前で起こる出来事のみを受けて勝手に喚いただけ。計画に参加させる意味の無い人物と認識されたその原因は自分に有る。エレンと親しく、上官に歯向かってまで庇うような言動もあったのだ。この策には不適と判断されたのだろう。
この先もそうあるのだろうか。現状しか見えず未来に目を向けない、誰も守れない何も変わらない弱い自分のままであり続けるのか。それでは兵士長補佐に任命されようと、上から必要とされないのも当然だろう。彼らはずっと、変わりたいと願ったこの背中を押してくれていたというのに。




「リーナ?どこ行くんだ?」

「ごめんエレン、少しの間一人でお願いしてもいい?」

「え?いやまあ大丈夫だけどーーーへ、兵長!」



エレンの声にリーナが咄嗟に振り返れば、開け放したドアの向こう側、今まで入り口に背を向けて話していた彼女の背後にリヴァイが立っており、邪魔だと言いたげに睨まれ慌てて道を空ければ部屋へと入るなり床や壁を軽く撫でた。つまらなそうに小さく鼻を鳴らした後、部屋の奥のエレンが掃いた方へと移動して同じ様に指を滑らせる。すると途端に眉間の皺が深まり、睨み付けられたエレンがびくりと身体を揺らした。


「全然なってない・・・おい、ここはお前がやれ」


指示を受けたリーナが返事をするとリヴァイはすぐに部屋を出て行った。先程の目的を思い出し追いかける様にして急いで部屋を出ると、廊下の少し先を凛と伸びた背中が行く。



「リヴァイ兵長!」


呼び掛けに歩みを止め顔だけで振り返ったその表情は決して柔らかくはないが、走り寄るリーナが二の句を継ぐのをじっと待つ。


「お話があります。少し、お時間をいただけないでしょうか」


リーナの申出にリヴァイは僅かに目を瞠り驚いた様な表情を見せた。改まって話がしたいと言い出すとは予想外だと、彼は心の中で独りごちた。
身体ごと僅かに振り返り見定めんばかりにじっとリーナを見つめ、暫く経つと踵を返し再び歩き出す。諦め切れないリーナが後を追おうと足を動かすと、良いだろうと低い声が廊下に響いた。


「但し今は掃除に集中しろ。話はそれからだ」

「は・・・はい!」


ありがとうございます、とリヴァイには見えずともリーナは思わず腰を直角に折り頭を下げた。その後彼の背中が廊下の先の階段へと消えて行くまで立ち尽くしたまま見送り、エレンを残したまま来てしまったのだと思い出して踵を返す。

まずは謝罪したい。エレンが憲兵団に渡らない為に必要だった演出の役者を買って出た彼へ何も知らなかったとはいえ責める様なことを言った。
それからどんな言葉で、何から話そう。いくらエレンが幼馴染で親しい間柄だからといって盲信するのではなく、兵士長の補佐に就く者として、エレンの扱いにはもっと慎重であるべきだったと反省しており、彼にも迷惑を掛けてしまった。が、彼に語るのに適当な言葉がどれだけ考えても見つからない。
きっと長ったらしくごちゃごちゃと用意した言葉よりも感じた事を率直に述べた方が伝わる筈だと、箒を持たない空いた手を握り締めた。








190630 修正


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