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"エレン・イェーガーは調査兵団に託す"。
"次の成果次第ではここに戻ることになる"。
審議の結果エレンは、次の壁外調査で人類にとって有益であると証明出来る成果を残す事を条件に、調査兵団預かりとなった。辛うじて最後のそれだけはリーナにも理解が出来た。しかしリヴァイが語った事もエルヴィンが提案した条件も、全く耳に入らず、衝撃的な暴行の一部始終以降の議会の進行は殆ど覚えていない。
抵抗出来ない人間を平然と容赦無く痛め付ける事が出来るなんて。何故誰も止めないのか。
リーナの頭の中には愕然と疑問ばかりが浮かんではぐるぐると巡る。
過去は誰にでもあるものだ。暗い過去も当然あるだろう。出身がなんだ。彼は仲間想いの心優しい人で、今や人類最強とも言われる兵士でーーー過去は過去でしかないのだ。そう思っていた。それはきっと間違っていないという自信もある。だが今、その自信が少なからず揺らいでしまっているのが事実であった。

手枷を外され、ハンジとミケに肩を借り連れられるエレンを見ても、それを先導するエルヴィンとリヴァイが目に入っても、リーナの身体は動かない。彼らが法廷を後にし、段々と周りから人が減り閉廷後の喧騒が落ち着いて来てやっと、後ろに組んで握り締めていた手を緩め、一歩踏み出すことが出来た。柵越しで距離があっても、寒気を覚える程の血液が一段高くなった中央の床に広がっているのが分かり、即座に視界から追いやる。
あんな風になるまで一方的に暴力を振るわれた人を今までに見たことが無く、その跡を見ているだけで足が竦む思いがした。この場を離れたい気持ちに反して機敏に動いてくれない足を必死に動かし、やっと辿り着いた重い両開きの木製のドアを開く。すると目の前には、この思考を占めている今一番顔を合わせたくない人物が立っていた。



「随分と遅えな・・・クソでも詰まったか?
さっさと戻るぞ」


いつもと変わらぬ表情で、いつもと変わらぬ声音でそう告げて、すぐに踵を返し滑らかな足取りで進んで行く。



「なぜ」


リーナの声に疑問符と共に面倒臭そうに振り返るその立ち振る舞いまでもが平生のそれと何一つ変わらない。


「どうしてあんな事をした後で・・・冷静でいられるんですか・・・?」


リーナは無意識に肩を抱き壁に半身を寄せ俯く。そんな彼女を沈黙したままの暗い瞳が無表情に見つめ、やがておもむろに壁に背中を預けた。その足は俯いた視界に映りつられてリーナが顔を上げれば、目の前の鋭く暗い瞳に横目で冷たく射抜かれ、ざわりと全身が軽く粟立つ感覚が体を駆け抜ける。


「"どうして"、か・・・本当は分かっているんだろう?」


腕を組み見下ろす視線に囚われたまま目が逸らせない。少しも寒くなど無い筈だが、華奢な肩が冷たい空気に撫でられた様に小さく震えた。


「知っている筈だ。俺がどこから来たのか」


ふと下がっていた口角がほんの僅かに上がり、双眸は刺す様な鋭さはそのままに細められる。笑顔とは言えない程の僅かな表情の変化はリヴァイ自身も無意識のもので、リーナもそれの意味するところは感じ取れないでいた。


「地下街じゃあ暴力は日常茶飯事だ。
陽も差さず埃臭い地下で生き延びる為には喧嘩に強奪、人身売買、売春・・・稼ぐか奪うかしなければ弱い奴から簡単に野垂れ死ぬ。憲兵も寄り付かねえ無法地帯なんだよ。厄介者同士が勝手に騙し合い殺し合ってくれてんだ、ほぼ黙認している様なもんなんだろうが」


そう語りながら身体の向きを変え、リーナへ向かい合う様にして肩を壁に預けたリヴァイは確かに笑みの様なものを浮かべていた。知り合って日の浅い者には分からない程の僅かな変化ではあったが、リーナにはしかと読み取れていた。


「そんな場所だ。俺もガキの頃には盗みは勿論、必要があれば殺しもやった。盗品を売り捌いてぎりぎりその日を生きられた事もある。その全てがあの場所ではごく普通の事だった。
まあつまり・・・俺は人を痛めつける事には少しばかり慣れてる。お前の様な純粋な人間じゃねえ」


リーナが暴行を受けるエレンを目の当たりにすれば心を傷めるであろうことをリヴァイは想定していた。しかし今回の策はエルヴィンの判断の下リーナへは秘匿されたまま進められーーー知らせたなら勿論猛反対を受けただろうーーー彼女は計画されたものと知る由も無い。恨みの矛先が自分自身に向くことも想定内、無論距離を置かれたり軽蔑されることも辞さない構えで、暴力的なリヴァイがエレンに一方的に暴行したという筋書きに彼女が納得出来れば良いと考えての言動であった。それがここまで必要以上に脅す形になってしまったのはリヴァイ自身意図しないところで、無意識の内に言葉を零していたような自覚があった。そしてリヴァイの知るところでは無いが、今その言葉達は大変な重みを持ってリーナを押し潰そうとしている。



「それは失望か?」


鼻で笑いつつ小首をかしげそう吐き捨てたリヴァイに頷くこともかぶりを振ることも出来ず、今自分は一体どんな表情をしているのかと前後不覚に陥る様な不安を覚えた。彼の言う通り失望したと顔に書いてあるのだろうか。
彼から語られる言葉は、こんな事で動揺なんてと馬鹿にした口ぶりでもあった。聞かされる壮絶な過去も突き刺さる視線も震え上がる程に恐ろしい。それなのに何故か、その全てが同時にちくちくと切なく胸に刺さり、締め付けられたように苦しい。幾度も世話になり記憶にしかと残る温かくて優しい手が汚れているとは、どうしても思えない。彼は情に厚く、真面目で清潔で、誠実だと十分知っているからだ。



「・・・先に戻ってろ」


不意に目を逸らしたリヴァイはくるりと向きを変え何事も無かった様に薄暗い廊下の奥へと歩みを進めて行く。
リーナは地下街に関して全く無知であった。存在を何となく知っているだけで詳しい実状は全く、というのが世間一般の認識であり自分も例外ではなかった。ただ柄の悪い集団が住み着いて強盗や殺し、人身売買などをする為の隠れ家にしているのだろうというよくある物語の一部の様な空想をしていた。しかし彼の口から語られた現実は想像していたよりも悲惨で。 実際は、地下の廃れた街で大人子供が関係無く、明日を生きる為に殴り合い奪い合い殺し合っている。食べ物に困らなかった事や暖かいベッドで眠れる事の有り難みを忘れてい彼女にとって、その事実は言葉を無くす程の衝撃であった。自分が如何に苦労を知らずに育ったのかを今まざまざと思い知らされていた。 母と父に愛され守られて育ち、その二人がいなくなってしまっても側にいてくれた人達がいる。
リーナの脳裏にリヴァイの顔が浮かんだ。鋭さの中に平生の真っ直ぐな輝きは見当たらなかった。諦め塞いだ様な、それでいて満足した様な顔で薄く笑ったのだ。鮮明に脳裏に焼きついたそれを思い出せば心臓を鷲掴みにされた様な感覚が蘇った。

彼を軽蔑したかと言えば答えは否だろう。彼の優しさを知っている。色々と誤解されがちだけれど本当は仲間想いで情に厚く、決して冷酷無情の暴君などではないのだ。しかし、その手で人を殺めた事があると言った。彼自身がそう言った以上事実なのだろう。嘘を吐く理由が無く、何よりこの話を聞いた今、彼がしばしば漂わす恐ろしい程に殺伐とした空気はその過去に起因したものなのか、と変に納得してしまっている。生きる為、身を守る為とは言え、人の命を奪う事は決して褒められるものではない。それは断言出来る。だがだからと言って彼を責められるだろうか。それも、地下街の様な生活を知らずぬくぬくと周りに守られて育ったこんな小娘に。
そして何より、失望したのだと言って背を向けるのは簡単だけれど、そうはしたくないのだと心が訴えていた。彼を独りにしてはいけないとーーー私なんかが離れて行ったところで彼は独りにはならないのだけれどーーー彼から離れてはいけないと、そう勘の様なものが告げていた。










190624 修正


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