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公爵がフットマンから受け取っていたシャンパンの内一つをリーナへ手渡した。濃紺の夜空に透けるグラス越しの薄い琥珀色の中に小さな気泡が止めどなく生まれては消えていく。


「少し元気が無いように見えたのですが、お疲れでしたか?」

「いえ!ただ単純に、彼に見入ってしまっていて・・・すみません・・・」

「いえ大丈夫ですよ。僕も本当に驚きました・・・やはりすごいお方だ」


リヴァイの姿がリーナの脳裏にチラつくその度に、積み重ねた関わりが遠い日々の事のように感じていた。彼は全兵士の指標となる人であり、リーナも当然ながら尊敬していて、拙いながらもその背中を追いかけている。しかし普段のリヴァイの姿から離れ燕尾服に包まれて意外な特技を披露した今日の後ろ姿は自分のよく知る彼とは全く異なるように見え、素直に多趣味だと感心できれば良いものの、言い表せぬ違和感が胸を覆い、早く明日が来て日常に戻らないかと急くような心地である。
上手く言い様の無い不安の様なものを消すように、持ったグラスの中のシャンパンを一気に煽った。それを見てくすりと笑った青年がテラスの入り口を通りかかったウェイターを呼び寄せ、リーナから空のグラスを取り上げると再びシャンパンと交換させる。ウェイターが下がるのと同時にああ、と口を開いた。


「そういえば・・・リーナ様とリヴァイ兵士長はどんなご関係ですか?」

「関係、ですか?彼は私の上官でーーー」

「ああ、そうではなく・・・お二人の間に、特別なご関係は?」

「え、?」


何故、と質問内容に漠然とした疑問を感じたリーナの顔が強張る。
今回の同伴者だから気になった、という程度の世間話の類ではないことは見つめられる視線で勘付いた。穴が空く程真っ直ぐに向けられるヘーゼルの双眸に、握り締めた手のひらがしっとりと汗に濡れるのを感じる。先ほどまで心地良いと感じていた夜風が湿気を帯びた不快なものに変わった気さえする。さながら蛇に睨まれた蛙であった。何故この人がこんなにも怖いのだろう。


「そ、そんなもの!何故、そんなこと」

「何故って・・・分かりませんか?」


すっと距離が縮められすぐ上から顔を覗き込まれる。整った顔立ちに湛えた微笑みですら恐怖心を掻き立てて、足元は凍りつき後退りを許さない。
目の前の大きく骨ばった手の指先が滑らかな手つきで視界の端で左頬を滑っていく。身体が震え首筋から背中、腕にかけて肌が粟立った。


「彼が邪魔になるからです」


そう言って笑う表情は先程までの紳士的なそれとは異なり貼り付けた様な不気味な、目だけが妙にぎらついたものだった。
手元に差し出されたシャンパングラスを受け取ったはいいが、アルコールを普段からあまり摂取しないせいか既に頭が揺れる感覚がし、手元のものに口を付ける事を躊躇うが、自分自身を律して意識はしっかりと保つ。



「そのような関係は何もありません。
私は兵士長の部下であり、心臓を捧げる覚悟で壁外に挑む調査兵団の一兵卒です」

「素晴らしい・・・リーナ様は兵士の鑑だ。
ですがこんなに美しい貴女が、あんな血と汗と泥でまみれたような所へ縛られ続けるなんて、僕には耐えられない。貴女はこんなにも清らかだというのに」


左側の下ろした髪を一束とられ、唇を落とされる。
美しいも清らかも、今日のような場で眩いばかりに輝く女性達ではなく、兵士である自分が受け取るには相応しくない言葉だと率直に感じた。その上、その血と汗と泥に塗れるような場所に身を置くと決めたのは紛れも無い自分自身である。母への憧れも否定されたように思えて、静かに湧き上がる感情に目頭が熱を持つ。


「巨人のいない世界を作りたいのです。それを実現するためならば、血に濡れようが汗でまみれようが泥を被ろうが構いません。そのためにーーーーー私は私のために、兵士としてここにいます」


そう言い終えるといよいよ視界が歪んだ。浮かんだ涙は感情によるものか酔いによるものか、はたまた両方か。
けれどどんなに着飾って華やかな世界に出向こうと兵士なのだ。遊ぶためにここにいるのではない。頭の回転が多少鈍ってはいたが、告げた言葉はリーナの今のありのままの気持ちであった。


「参ったな・・・貴女の心の中ですら、僕は巨人に勝てないようだ」

「そ、そんなつもりでは」

「それならば僕も、貴女の夢を叶える為に、応援するしかありませんね。
調査資金にお困りだと聞きました。ぜひ僕に協力させてください」

「あ、ありがとうございます・・・!」



図らずも誘いを断るための本音の演説が功を奏した様だった。強張っていた肩の力が抜け左手を置いていた手すりに半身で凭れかかる。兵団で任せて欲しいと啖呵を切った手前手ぶらで帰れないと責任を感じていたが、これであれば心配は無さそうである。


「その代わり、と言ってはなんですが・・・
時期を見てまた招待状を送らせていただきますので、次回もまた会っていただけますか?」

「はい。私でよろしければ」

「何を仰いますか。私はリーナ様にお会いしたいのです。約束ですよ、忘れないで下さいね。
では、私たちの再会を誓って・・・乾杯」


グラスを目の高さまで持ち上げ微笑むその姿には先ほどまでの異様な雰囲気はもう無く、主張を汲んでもらえた事も相まって目の前の青年に対しての不信感は消えていた。同じ様に乾杯し、グラスの上から気泡が立ち上っては消える様子を見つめる。
横目で大広間を見遣った限り宴もたけなわというところ。彼もまだ色々と忙しいことだろう。それを考慮すると、早々にこれを飲んでしまわないといけない。しかし頭がくらくらとする上に脈も早く感じられ、顔が火照っている気もする。自分がお酒に強い方ではないことを自覚しているからこそ、これ以上は良くないのだと身体的な兆候で許容量を測れた。だがしかし資金提供の申し出も頂いたのだし乾杯の音頭をもらってここで飲まないのも失礼かと気を揉んでしまう。
帰れない程に酔ってしまうことは無い筈で、先程の様に一気に飲まなければ悪酔いもしないだろう、と自分なりに折り合いを付けたリーナが長い睫毛を伏せ、顔を上げてグラスを口元に運ぶ。



「待て」


唐突な低い声と共にリーナの手の中から冷たい感触が攫われていった。
驚いたリーナが視線を横に移すと、いつの間にか肩が触れるほど近くにリヴァイが立っており、その手に収まるグラスにシャンパンが揺蕩っている。


「顔が赤い」

「へ・・・?」


彼の優雅な立ち居振る舞いを目の当たりにしていたせいか、今日の見慣れない装いのせいか、それともアルコールが回った自身の身体のせいか、リーナは自分の早鐘の様に鳴る鼓動に困惑した。
白い喉が上下する様子もグラスからゆっくりと唇を離す動作も、普段は目につかない一つ一つから色気が立ち上り、まさしく大人の男性の振る舞いであった。


「有難く頂戴した」

「リヴァイ兵士長、先ほどのゲーム、観戦させていただきました。とてもお上手なのですね・・・
兵士になられる前に何処かでやられていたのですか?」

「さあ、忘れてしまったな」

「そうでしたか・・・残念だ」


二人分の殺気が痛いほどリーナの肌に刺さる。テラスに出て来ていた数人が主催者であるバルト公の存在に気付き、目の当たりにしているただならぬ雰囲気に耳打ちし合う。どうするべきかとリーナが内心慌てふためいていると、その腰に腕が回りそのまま引き寄せられる。ふらりと身体が傾くままその腕の主のすぐ横に収まった。


「酔いが回り過ぎだ・・・
明日の業務に響いては困るので先に帰らせていただきたいのだが」

「ええ、構いませんよ。お大事になさってください。
急なお誘いにも関わらずご列席いただき感謝申し上げます。どうかお気を付けて」


そう言って微笑む青年が流れる様にリーナの前に跪く。初めの様に左手をとられ、そこに薄く整った唇が寄せられる。


「次にお会いする日を心待ちにしております」


ガラス玉のように透き通った瞳の奥がきらりと輝いた様だった。少年のように無邪気ではない。妖しく不敵に、だ。
圧倒されるリーナがやっとの思いで相槌を打つと、痺れを切らしたリヴァイに手を引かれるまま会場を後にした。

行きと同じ馬車に乗り、窓の外の景色が段々と兵団本部近くの見覚えのあるものになっていく。
行きとは違いリーナのすぐ隣で平生の様に足を組んで腰掛けるリヴァイはしっかりと着込まれていた礼装を崩して溜息を吐いた。そんな彼に聞きたい事は沢山あったはずのリーナだったが、襲い来る眠気に身体が言う事を聞かない。
不機嫌そうな低い声に呼ばれて重い体に鞭打ってゆっくりと顔を向けると、案の定深く眉間に皺を寄せた彼と目が合い睨み付けられる。


「シャンパンってのは度数も普通にある上に炭酸だ。要は酔いが回り易い。
口説きたい女に飲ませる酒って言われるくらいだからな、考え無しに飲んでりゃあ心を許してると思われる。
強くもねえなら無理をするな。覚えておけ」


その恐ろしい表情とは裏腹に彼にしては優しい、言い聞かせるような口調の忠告だった。疲弊した心にそれはすっと沁みて安心感をもたらし益々眠気を誘う。あの一杯を飲んでいれば更に迷惑をかけていただろう事を思うと、心配させてしまったことは申し訳無く感じていた。しかし会場ではあまりに遠いと感じていた彼が、隣で説教を聞かせてくれ、日常へ戻った安堵感が気疲れした体に心地良い。かくかくと頭が舟を漕ぐのを堪え瞼を持ち上げようと奮闘していたが、いよいよ糸が切れた様に力が入らなくなり体が横へ傾く。しかしすぐに温かい何かに支えられ、その体が座席に横倒しになることは無かった。



「ふふ、兵長・・・なんだか、きょう・・・」

「ああ?この酔っ払いが・・・
オイ、寝るんじゃねえぞ」

「ん・・・は、い・・・」

「ちっ」








190602 修正


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