降谷さんとはあれから会うこともなかった。頻繁に会う関係ではないからそこまで気にしていない。それに裏を返せば、彼は怪我もせずに元気にしているということ。
朝を迎えるたびこの胸にぽっかりと空いたような気分になるのはどうしてなんだろう。降谷さんの温もりが、まるで昨日のことのように思い出せる。いつの間にか彼を意識してしまっている。
「…降谷さん」
窓の外から溢れんばかりの朝の光が眩しくて、目を伏せた。この陽がとても似合う降谷さんが瞼の裏側に現れる。きらきらとした髪に屈託のない笑み。昔から変わらない見た目は少し羨ましい。
昔から景光といろんなところに出掛け、ときには喧嘩して、怪我を拵えてその度に私と明美とで呆れていた。…明美が居なくなってからも彼らとは中学も高校も一緒に通って。
景光と付き合うようになったのは高校卒業を前にした頃だった。
『好きだ。付き合って、ほしい』
くりくりの猫目が今まで見たことのない真剣な眼差しで私を貫いた。
誰かに好きと言われるのは初めてじゃなかった。
恋愛に興味がなかった──なんてことはないが、誰かと付き合うなんて当時は考えられなかった結果すべての告白は丁重に断っていた。
相手に逆上されて危害に及びそうになったこともあったが幼馴染二人が守ってくれたおかげで私は平穏な生活が送れていた。
そんな幼馴染の一人が私に恋愛感情を抱いていたとはこのときまで露知らず。
突然の告白に驚き、悩んだものの景光と付き合うことになった。
それもこれも降谷さんが背中を押してくれたから。
どんなことがあっても、この選択を選んだことは後悔していない。自分でも気付かなかった気持ちに鍵をかけて胸の奥に閉じ込めていたなんて今もよくわかっていない。
ああ、これではいけない。
今は恋愛感情とは違う。
…私が好きなのは───景光だ。
もやもやとした気分を払拭させようと夕食の買い物に出て、ぼんやりと食材を眺める。
降谷さんが作り置きしていったものはどれも美味しかったな、なんてスーパーの調味料コーナーでスパイスを物色していたら、トン、と誰かと手が当たる。
どうやら同じものを同じタイミングで取ろうとしていたようだ。ごめんなさい、と言って相手の顔を見る。
「貴女は……」
「……あの?」
横に立っていたのはピンクがかった茶色の髪で細目に眼鏡を掛けた男性。じっと見られていて、私を知っているようだった。誰だろう、こんな端正な顔立ちの人を忘れるわけが……。
頭を捻りつつ、考えているとその人は左手をあげて、袖を捲る。包帯が見えた。
「あ、」
ようやく思い出した。彼は先日、私が受け持った患者だ。煮込み料理を作っている最中に鍋を持つ手が滑り、ひどい火傷をして、診察にきたのを私が診たんだった。
「すみません……患者さんの顔を忘れるなんて」
「いえ……不特定多数の方を毎日診ていらっしゃるんですから……思い出してもらえてよかったです」
「ええと、火傷はそれからどうですか?」
しかし、顔は思い出したけど、名前は思い出せない。そんな私を見かねて、彼は沖矢昴と名乗った。人受けの良さそうな青年。同年代ぐらいだろうか、いや見た目は年下に見えるけれどと考えていたら、彼は腕を降ろして、柔和な笑顔を見せて私の問いに頷いた。
「はい、経過は順調です。跡も残らないようですし。これも優秀なお医者さんの手当のお陰ですよ」
「……初期対応が適切でしたから。でもよかったです」
頭の上に疑問符を並べる沖矢さんに私もまた微笑み返して、左手に視線を向けた。
「なんとなく、手を、いや指を大事にしているお仕事に就いているのかと思ってまして」
職業柄、人となりをある程度見るので、この人が何の仕事をしているのか見定めてしまう癖がある。
この、沖矢という男性は左利きで見た目はごつごつした指だけど細く、綺麗だった。とても大事にしている、という雰囲気が見て取れた。
…景光と似ている。公安警察の彼が何をしていたのか詳しくは知らないけど指先を使う仕事をしていた。のだと思う。
降谷さんに尋ねたことはないけれど、潜入捜査をしていたというのだからもしかしたら銃を扱っていたのかもしれない。
そして目の前にいる沖矢という男もそんな風に見えたのだ。流石に銃ではないだろうけど。小説家だったりピアニストだったり、なんて。
「ほぉ……さすがですね。医師をしているだけあって観察力が高い」
「職業柄、ですよね。間違ってました?」
へらりと笑えば、沖矢さんはおや、なんて驚きながらも笑みを返して濁した。彼は左手を伸ばして棚からガラムマサラを手に取った。
「今日はカレーですか?」
「はい。ずっと煮込み料理にハマっているんですよ。どうぞ」
その瓶をカゴに入れずに私の前に差し出された。ありがとうございます、と言ってそれを受け取れば、沖矢さんはもう一つ同じものを取って今度こそ自分のカゴに入れた。
火傷には気を付けて、と言い立ち去ろうとすると、まだ何か用があるのか、沖矢さんが先生、と呼んだ。思わず振り返ると、彼は肩を竦めていた。
「いえ、すみません。素敵なネックレスを身につけていらっしゃるなと」
「…ああ、これ」
胸元を見て、ピンクゴールドにコーティングされたネックレスのトップを見る。パズルピースのタイプで所謂ペアネックレスというやつ。
学生時代に景光から貰った決してそんなに高くないアクセサリーはブラックにコーティングされていた景光のそれとうまく嵌まる仕組みになっている。
よくあるペアものとして定番のデザインははじめて彼から貰ったプレゼントだった。
いきなり指輪を送るのは勇気がいるから、なんて言ってついぞ貰うことはなかったな。苦笑いを浮かべる私に沖矢さんは大事なものなんですねと言った。
……その言葉に私は満面の笑みをちゃんと浮かべられただろうか。
その日は寒い夜で東都にも初雪か、と気象予報士がテレビで言っていた。息を吐きながら窓ガラスに映る自分の首に掲げられているネックレスを握り締める。ベランダの窓を開け、冬の澄んだ夜空を見上げれば星空が散りばめられていた。
よく東都は綺麗な星が見えないと歌われているけれど、生まれも育ちも私は東都だから他と比較しようもないから、綺麗な夜空だと思っている。
視界を正面に向ければ首都高方面からの夜景。あの中に、降谷さんも居るのだろうか。
降谷零という人物は公安警察に所属して、危険な潜入捜査をしているということしか知らない。きっとそれすらも極秘事項のはずなのに"協力者"という立場上、私は知ることとなった。
私がこうして仕事をして、呑気に夜景を見られる平和は彼が沢山の正義を貫いてきたからだ。目を伏せ、息を吐いた。
治療しているときにふと見せる弱々しげな背中に支えたいと純粋にそう思った。
それはあくまで恋愛感情ではない。
何度そう言い聞かせた?
そんな声が私に問いかける。
◆
『ヒロに告白されたんだろ?』
『そうなの。でも言うだけ言って帰っちゃって。それから顔を合わせてくれないんだけど…』
放課後、下駄箱で会うキラキラな髪の色の幼馴染が一人で待ち構えていたので、帰路を共にする。何か言いたそうな顔をしているので私は先日の景光の告白の件だとピンときつつも、決して気まずくはない空気の中、足を進めている。
私の家と彼の家で分かれる道の手前で一歩先を歩く彼は足を止めて私を見た。
肩を竦めて言ったセリフに私は苦笑いしながら言葉を返した。
「断られると思って逃げたみたいなんだ」
「……うん」
「名前は、ヒロのこと…」
「……好きとか考えたことなかったの今まで。ずっと昔から、一緒に居たでしょ?」
夕陽がゆっくりと沈んでいく。じんわりとかいた汗が首を伝う。零は否定も肯定なく、ただ静かに私の話を聞いていた。
誰かと付き合うなんて考えたことがなかった。それがずっと一緒に居た人とでも。
だけど今までとは違う。名前も知らない誰かに告白されたわけじゃない。だから私は真剣に考える必要があった。
「返事を無下にできないなとか考えていたら、景光逃げちゃって。……正直、好きとかわからなくて…」
「だと思った。ヒロが落ち込んでいたけど、きっと名前はきちんと答えを考えているだろって慰めたんだ」
被せられるように言われたその言葉はどこか焦りを滲ませていた。思わず丸くなる目をみた零はふはっと溢すように笑っていた。
「嫌いじゃないの。…好き、よ?でも今の私の好きは景光と同じ好きじゃないから」
「ヒロは、あーいや名前も知ってると思うけど、いい奴だし、将来は警察官になる予定だし優良物件だと思う」
「優良物件って」
クスクスと笑う私に零は景光との思い出を話し出す。私も一緒にいたから知ってる話をたくさん。零が楽しそうに話すから、私もまた笑って相槌を打った。
「だから、さ、今すぐに恋愛対象の好きとして見なくてもいいんだ。それはヒロもわかってると思う。今までと関係性が変わってしまうかもしれない。でも名前とヒロは似合ってる」
「零」
零が私を見ている。だけど彼の後ろを西日が差し込んでいて、眩しくて私はその表情を見ることができない。
「僕が言うことじゃないし、前向きに考えてほしい、もちろん名前に強制させる気はないんだ。でも僕はヒロがずっと…名前を好きなのを知っていたから」
◆
思えばあれから景光のことを意識しだすようになったんだっけ。あの人のあの台詞だけで、好きになってしまうなんて単純だ。でも景光と一緒にいて楽しいこともいっぱいでたまには喧嘩もするけれど幸せだった。
ああ、今も、好きだ。
ゆっくりとネックレスを握りしめていた手を広げるとチェーンが硬く鈍い音を鳴らした。
これも、古い記憶になってしまったなと目を開ければ、ぶるりと身体を震わせた。思ったより長い時間ベランダに出ていたのか、星空はいつのまにか雲に覆われ見えなくて、雨が降り出していた。気温が低いと言われているからこのまま振り続けば雪に変わるだろうか。できれば、早く雪になってほしい。……雨は好きじゃないから。
久しぶりに再会したあのときを思い出す。降谷さんの顔で悟ってしまった、あの人の死を、私は昨日のことのように思い出せる。…景光の声はもう思い出せないというのに。……もういないからこそ、上書きされることがない。
部屋に戻ろう。雨音なんて聞こえないように布団を被って、夜を過ごそう、そう振り返ると人影が見えて肩を強張らせた。だけど恐怖は感じない。なぜならセキュリティの良いこの家に入れるのは私ともう一人……降谷零しかいないからだ。
彼は私を見ていた。ニット帽を被り、マフラーを巻いた普段はスーツを着ている彼の珍しい装いに、手にはサングラスを持っているから変装でもしていたのかもしれない。
恐る恐る、降谷さんに近付く。怪我をしている様子はない。
海のような瞳は昏く、まるで泣いているように見えた。そっと差し伸べた手は彼の大きな手で包まれてしまい、ひやりとした体温は私のそれよりも低くて背中が震えてしまった。
「僕は、」
"もう失うわけにはいかないんだ"──そう言って降谷さんは哀しく、笑う。
何を考えているのか私にはわからない。
ただその日を境に降谷さんはよく干渉してくるようになった。私の持つ仕事を減らして家にいてほしいとか、仕事以外の外出もしないでほしいとか、まるで緩かな軟禁をされているような。強制されたわけではないけど、私も私で素直にそれを聞き入れ、仕事を徐々に減らしていけば、降谷さんの様子が段々と変わっていって、驚くことが増えた。
「おかえり」
「……ただいま…?」
仕事から帰ってくれば、彼が先に部屋にいて。目を丸くさせる私に昔のような笑みを浮かべて食事を用意している。まるで景光と一緒にいたときを思いだしては、首を振る。彼は降谷零だと、景光とは違うんだと言い聞かせて。
「明日はどこだっけ」
「杯戸中央病院に。明日でここも終わりです。あとは警察病院だけになりましたね」
静かな食事を済ませ、せめて洗い物ぐらいはと
キッチンに立っていると降谷さんは私に明日の予定を尋ねた。杯戸…と呟く降谷さんになにか用があるのかと返せば、いや、うんと歯切れの悪い答えが返ってきたので仕事の話かと理解してこれ以上は話をしなかった。
「名前」
「……はい?」
「……前みたいに呼んでほしい」
「…呼ぶ?」
「……僕の、名前、を」
彼の名前を零から降谷と呼び換えたときもそれに関して何か言われたことはなかった。協力者といえども彼の仕事は詳しくは知らないが、"安室透"と身分を偽り生きていることは知っていた。外でもし彼と会えば、その名前で呼ぶことと強く厳命されていたし、運がいいのかそんな場面はなかったけれど。
彼が彼でいられる場所はもう私のところだけなのだというのも、わかっていた。
だからこそ、線引きは必要だった。大好きな人を亡くした私は彼に依存しないようにと。
ゼロ、と呼んでいたあの人も、降谷さんと同じ志を持った仲間も、もうここにはいない。
水道の蛇口を締めれば緊張感に包まれる。そこにさっきまでの和やかな空気はなかった。
声が震えるかと思った。それでもするりと紡げたのだ。
零、と。
くしゃくしゃに笑う彼は昔と同じ笑顔だった。