「忘れたいなら忘れさせてやる
…………でも、忘れないでくれ
俺のことも、あいつのことも」
苦しそうに言って降谷さんはまた私にキスをした。私の舌を降谷さんは優しく舐めて、噛んで、吸い上げて。
初めてこんなキスをした。
カーテンの隙間から溢れる朝日が眩しくて、目を覚ます。頭が割れるように痛いし、視野が狭く見える。
すぐに昨夜のことを思い出して、布団を顔まで被った。あれだけ泣けば頭も痛くなるし、目元も腫れているだろう。
隣で一緒に眠っていた彼はもういないのが救いだった。
次に来たときには謝らないといけないな、二度寝をしようと目を閉じればすぐにうとうとと眠気がやってくる。今日は仕事もない。家から出ないことにしよう。
カチャリ、と音を立てて寝室の扉は開かれた。落ちそうな意識がはっきりして慌てて起き上がれば、帰ったと思っていたはずの降谷さんが立っていて。
どうして、の私の声は掠りきって出ないし、酷い面を見られるのも嫌で俯いた私に降谷さんの足音が近付いてくる。
俯いている私の視界に降谷さんの手が映る。ぎゅっと目を閉じて、私は絞りだすように声を出した。
ごめんなさい、と。
「名前」
「昨日…その、へ、変な夢見ちゃって…取り乱しちゃって……ごめんなさい」
恐る恐る目を開けると降谷さんの手は視界から消えていて、ほっと胸を撫で下ろす。
「…お互い、嫌な夢を見たな。…おはよう。腹は空いてないか?食事、作ったんだ」
「へ…?」
いつかの私が彼を無理やりバスルームや洗面所に押し込んだように、私も彼に同じように洗面所へと放り込まれた。
朝食にしよう、そう笑ってベッドから手を引っ張られてしまった。
「……」
鏡の向こうの私は本当にひどい顔。少しでも瞼の腫れを引かせようとしていたら、またもや降谷さんに呼ばれてしまったので渋々ダイニングに向かう。
「これ、降谷さんが全部?」
テーブルの上にたくさん並べられた食事を見て、言葉をなくす。昨日まで冷蔵庫は空っぽだったのに、私が眠っている間に買い物をしてくれていたようで。思わず冷蔵庫を開ければ常備菜まで置かれていた。
「……降谷さん、怪我の様子見せてください」
「後でな。ほら、食べるぞ」
降谷さんはすでに席について両手を合わせていただきます、と言ってお箸を手に取った。
「……いただきます」
私もそれに合わせて着席してお箸を取った。静かな朝食の時間はすぐに終わりを告げて、食器を片付けようとする降谷さんを押しのけてシンクに立つ。
「料理、出来たんですね」
意外です、といえば渋々ながらも隣に立つ彼はあぁと言った。どうやら洗った食器を拭いてくれるようだった。
「どこかで役に立つかもしれないし、な」
「……美味しかったです。ご馳走様でした。それより、時間は大丈夫なんですか?」
「昼からにしてある。たまにはゆっくりしてもいいだろう」
その台詞で水道の蛇口を止める。洗い物は途中なのにもかかわらず、タオルで手を拭く私に困惑する降谷さんに部屋の奥を指差した。
「先に怪我の具合見せてください」
後で、と先延ばしにされたことを忘れていた。そうだったなと笑う降谷さんは昨夜の雰囲気を残してはいなかった。
いつも通り。うん、いつも通り。
「夢を見たんだ」
包帯を変えている途中で降谷さんは呟いた。心が痛くなって、私も昨夜の夢を思い出した。
あの暖かい穏やかな時間の夢を。
降谷さんは嫌な夢だと言った。その内容をどうやら教えてくれるようだ。
「初めて見たときは、あいつに…ヒロに名前のことを頼むって。あー、それは夢というか昔、言われたことなんだが、思い出せと言われたかのように夢に現れて」
包帯を全て剥がせば降谷さんの上半身が露わになる。生傷の耐えない身体は日々、この国を護ってくれている証拠かな。
「それから、何度も出てくるんだヒロが」
「…うん」
「…だから、俺をお前のそばに置かせてほしい」
「、え」
ぱちぱちと瞬きをしても、降谷さん顔色一つ変えずに、真っ直ぐに私を見ている。
「ヒロの代わりでもいい。もちろん、お前が、名前を幸せにする奴が現れるまででもいい。…守らせてくれないか」
目を伏せ、悲しそうに私の古傷を撫でる降谷さんの指を振り払うことなんて私にはできなかった。
「降谷さんにとっては嫌な夢、でしょ…」
「そうだ。名前には悪いけど。でも、ヒロが死んでも死にきれないんだろうなって気付いたんだよ」
ぐっと引き寄せられ降谷さんの腕の中に収まる私の鼻孔をくすぐるのは消毒薬の匂い。ごつごつとしているのに細い身体の割に腕の力は強くて、この人に抱きしめられる感覚も慣れてしまったな。
あれ、あの人にはどんな風に抱きしめられてたっけ。
「…景光、しつこいもんね」
「…だな」
彼と住んでいた家ももうない。引っ越しの際も彼の私物は驚くほど少なくて、写真といったものもなかった。彼の笑顔も照れた顔も怒った顔も悲しんだ顔も全て記憶が頼りだ。
その記憶すら、もう朧気なのが嫌になる。
「降谷さん」
降谷さんの温もりを直接感じる。心臓が規則的なリズムで鼓動を刻んでいる。ああ、この人は生きてる。
「代わり、なんて言わないでください。そばにいて、とも言いません。でも、無事に、せめて生きて帰ってきてください、私のところに」
「名前…」
お互いがあの人の代わりにお互いの寂しさを埋めようとしている。そんな不安定な関係は長くは続かない。それでも縋り付きたかった。表では何を言っても思ってもあの人の死を、理解したくない気持ちは強かった。
降谷さんは今まで私のそんな気持ちを汲んでくれたのだ。
"必ず約束する"
そう私を抱きしめて降谷さんは私に1枚の写真を渡して、家を出ていった。
写真に写されていたのは警察学校時代の景光とその同期たちの写真。降谷さんは映っていないのが、らしいなと思った。
「……ひろ、みつ」
ぎゅっと写真を握って、私はまた泣いた。
ねえ、景光。
私は貴方より年を取っちゃったよ。
ねえ、景光。
私は昔より料理が上手になったんだよ。
ねえ、景光。
私は今でも貴方を愛してる。
ねえ、景光。
降谷さんの温もりに甘えてしまう私を許して。
「っ……」
この写真に景光以外に写っている人たちは全員もういないということを知ったのは、それからすぐだった。
はじめて、連絡なしで彼が家に来た。
私の嫌いな雨の日だった。