心臓がバクバクする。震える掌の中には小さなメモが握られている。
静かに歩くその場所はとても静かで、自分の足音だけが微かに耳に入る。
そよそよと柔らかな風を受けながら照らす日差しに目を細めた。11月に入ったのにも関わらず、今週は夏の気候とそう変わらない気温だと予報されていた。
……3年前の今日はコートが恋しかったというのに。
目的の場所が見えるとゆっくりと一歩一歩を踏みしめるように、足を進める。ピタリと止めたのは一つの墓石の前だった。
「……お久しぶりです」
そう言って深呼吸を一つ。
心臓だけでなく心なしか胃が痛い。墓石の側面に刻まれている名前を見て掌を握った。くしゃりと、メモが潰れていく音は風にかき消されて聞くことはなかった。
「……松田先輩」
警視庁時代の私の先輩は松田陣平という、爆発物処理班のエースだった人だ。
彼ともう一人の同僚だという萩原研二という人は交番勤務を終えた私が彼の元に来たときには既にこの世には居なかった。
この二人が今も生きていれば、爆発物処理に敵うものは誰一人として居なかった────彼らを知るものは皆、そう言う。
私の上司でさえ、事件で爆発物を発見したとき、そう言ったのをよく覚えている。
「……お葬式には参列しましたけど、改めて此処に来るのははじめてですね。松田先輩、なんと私、警察庁に配属されちゃったんです」
墓石の前にしゃがみこみ、ポケットから煙草とライターを取り出す。お墓参りという名目上、花を買うことも考えたけどこの人は煙草の方が喜ぶだろうと、先輩が愛煙していた銘柄をポケットに忍ばせた。準備をしながらこの3年起こったことをつらつらと話す。
松田先輩がいなくなってから、異例での警察庁への異動。墓地には誰もいないからと公安として働いていることも漏らし、日々忙殺されているけれど、上司の信念に感化され、充実した時を過ごしていること。
私の力を使ってくれる優秀な上司の話をぽつぽつと呟いた。
「……時々、先輩が警察学校時代の話をしてくれましたね。よく出てくる、"アイツ"がまさか私の今の上司だなんて先輩も予想外でしょう?」
警察学校を卒業して以来、首席だった"アイツ"と会うことがなくなってなにをしているかわからないと嘆いていた先輩の瞳はサングラスに隠されていてわからなかった。
きっと元気でやっているだろと笑いながら言っていたけど、今の私にはわかる。
「あの人は、確かになんでもできて、強い。でもその強さがいつか仇となるかもしれないと、私も思います」
それでも彼のこの国を愛して護りたいという気持ちは誰よりも強い。微力ながらあの人の支えに私もなれていたらいい。
煙草のビニールを外して、銀紙を取る。一本取り出して火をつけてみるけど、上手く点かない。何度もやってもただ燻って燃え落ちるだけ。
「あれ」
煙草が湿気ているのか?いやでも買ったばかりだし、と色々と頭の中で混乱していると不意に後ろから声が掛かった。
「貸して」
優しいテノールの声。久しぶりに聞く上司の声だ。
「っ、」
思わず名前を呼びそうになるのを唇を噛んで耐えた。何故、此処に居るのか。潜入先が忙しいから暫く潜ると言っていたじゃないか。
褐色の指が私から煙草を奪い取る。恐る恐る振り返るとそれは咥えられていて。目が合えば、目尻を下げつつ私のもう片方の手で持つライターを指差した。
火を点けろ、ということを理解した私は風を避けるように手を翳して、煙草の先に火を灯した。すぅ、と息を吸う音が聞こえて、無事に火が点いたようだった。
「こうやるんだよ」
「……ありがとう、ございます」
人差し指と親指で煙草を持つと、上司…降谷さんは墓石の前にそっと置いた。
「まさか居るとは思わなかった」
「私の台詞ですよ。此処に来てよかったんですか」
「今朝方片付いたからね。いや、無理矢理片付けた、が正しいか」
立ち上がった降谷さんは太陽に顔を向けた。陽の光できらきらと髪が輝いていた。
「本当は来るつもりはなかった。今までも足を運べなかったからな」
「……」
「来てみたら、君がいるから驚いた。でもそうだな、君も奴を知っているから当然か」
目線を墓石に向けると、もくもくと立ち上る煙に目が痛い。思わず涙が出そうになるのもこれまたなんとか耐えた。
「私も、今日初めてここに来たんです。なんとなく、先輩はまだ生きてるんじゃないかってあり得ないことを思いながら。貴方と同じように此処に来るのも悩みました」
だけど最近つくづく思う。私は彼の役に立てているのかと。彼の支えになりたいと思えば思うほどどこか空回りしている気がした。風見さんのほうが優秀だ。私より、私なんかより、とえらくネガティブ思考になってしまった。
「墓石に刻まれている名前を見て実感が沸きました」
すとん、と何かが心に落ちた。
そして、今まで抱えてたもやもやも吹っ飛んでいった。
「松田先輩が出来なかった分まで貴方を支えさせてください」
松田先輩も萩原さんも刑事部に所属していた伊達さんも、同じ公安の仲間だった諸伏さんもきっと支え続けたかったはずだ。
この逞しくて、でも脆そうな背中を。
「君は……」
充分支えになってるさ、そう聞こえてすぐ、背中にぬくもりが被さった。
肩口に埋められる頭、腹の前で結ばれる震える腕を撫でるように彼に凭れ掛かった。
天国という概念は信じちゃいない。
だけど今だけはあってほしいと思っている。
天の上にいる人たちに私の新たな決意を誓わせてほしい。
貴方達が図らずも遺してしまったこの人を私が護ると。
彼の手となり足となり、駒となる。公私ともに、彼の弱いところも仇となる部分も全て受け止めると。
だから、もし、天国があるのなら、どうか────
「……見守ってください」
声にならない言葉を小さく呟いた。
ふわりと香るのは彼の匂いか、燻り消えた煙草の残り香かはもうわからなかった。
181107