ピピッと鳴る電子音に気が重くなる。
脇下から抜き出したそれに表示されているのは38度。
何度も測っても同じ結果だった。
熱があるだけで身体は割と動く。喉も頭もいつもどおり。
仕事は減るどころか貯まる一方だし、休んでる場合じゃない。無理そうなら仮眠室借りて休めばいいや。体温計をぽいっとベッドの上に投げて、支度をする。
やばいかもと思ったのは登庁してすぐだった。身体が鉛のごとく重くなる。
普通に歩いていたのにぜぇぜぇと息切れと動悸が激しい。登庁する前に寄ったコンビニで買った栄養ドリンク数種類とのど飴とマスクが早速役に立ちそうだった。
踏ん張りつつ自分の部署まで歩きながら、上司の予定を思い出す。たぶん今日はここにこないだろう。
暫くは潜入している組織のほうに出ずっぱりだと風見さんと話していた。
あとはその風見さんが警察庁に来ることがなければ、上司に知られないで済む。
栄養ドリンクの蓋を開けて一気に飲み干した。
上司から預かった情報を元に次の事件への足掛かりを探す。次にあの組織は一体何を仕掛けるのだろう。
文字の羅列を一字一句読みこぼさないように。
正午を過ぎていよいよ思考が回らなくなってきた。
真っ赤を通り越し、真っ青になった顔に先輩や同僚にまで怒られ、帰れコールを浴びせられた。
ふらふらな頭で無事に帰れるわけはないなと思い、仮眠室で休んでから帰りますね、皆に告げてから空っぽの胃に解熱剤を放り込んで、仮眠室のソファベッドに倒れ込む。
息苦しさを感じて目を覚ましたときは、口内に潤いが行き渡った瞬間だった。
何が起こったのかわからない。
うっすらと目を開ければ至近距離に見える上司の顔。
ごくん、と喉に水分が通る。
驚いて咽る手前で、上司が唇を離した。
「げほっ……はっ、ぁ」
咳が止まらない私の背中を起きたか、と呟きながら降谷さんはトントンと優しく叩く。
「…どうしてここに」
窓の外は真っ暗。申し訳程度の照明で降谷さんの顔を見ると笑顔だった。その笑顔にひっ、と怯える声が出る。
「風見経由で連絡があった。苗字が仮眠室に入ったきり出てこないっていうから。無理はするなと言っているだろう?」
「ひょ、ひょこまで無理ひてまふぇん」
頬を抓まれ、ふにゃふにゃとした声しか出ない私に、降谷さんは尚も怒っている。そりゃ私が悪いけど。
「あっちの方がキリよく終わったから来れたもののお前は……」
意識を失う前よりも熱は下がった気がする。頭はぼーっとするけれど、気分はあまりよくない。ご飯も食べずに薬を飲んだからだ。
「死んだように寝てるから脱水症状でも起きてるのかと思った」
頬が解放され、降谷さんからキャップが開けられたままのミネラルウォーターを渡される。
中身は少し減っていて、先程のはキスというより水の口移しかと納得したら顔が熱くなる。
「それ飲んだら帰るよ」
降谷さんは全く気にしてないようだった。まあキスだのなんだのなんて今更な関係だけれども。
大人しく水を飲みながら降谷さんの言葉に耳を傾ける。降谷さんは自分の手を私の額に合わせる。そして、車を下に置いてるから、と言った。
「…思ったより熱がない。薬は飲んだみたいだな。食欲は?」
「微妙…」
「家に帰ったら軽いものを作るよ」
ーーー扉がノックがされて開いた。
「失礼します、降谷さん。仰っていたものを……あぁ、苗字さん起きられましたか」
「助かったよ、風見」
扉の向こうには風見さんだった。手には袋を持っていて、スポーツドリンクが覗き見えた。
「か、風見さんにもご迷惑をお掛けしてなんといえば…」
「働き詰めでしょうが、しっかりと自己管理を行ってください」
「一晩寝て治します…」
「そうと決まれば帰るよ。歩けるかい?」
はい、と頷いて、ソファベッドから降りようとしたけれど、がくんと、肘が崩れ落ちる。
床に落ちそうになる私を降谷さんが慌てて支えてくれた。
「無理そうだな…」
「今のはたまたまですってば」
ふわっと降谷さんの香水の匂いが鼻孔を擽るーーーと思ったら視点は先程よりも高くなった。
「ちょ、降谷さん!ここ庁内…」
「病人は静かにしてくれ。行くぞ風見」
「はい」
所謂、お姫様だっこをして、庁内を歩く降谷さん。定時はとうに過ぎているため、人は昼間よりも少ないとはいえ気にせず、庁内を出る。
私は私で恥ずかしくて彼の胸に顔を埋めた。
入り口の前に止められた彼の愛車に風見さんが助手席の扉を開けてくれた。そこに降谷さんは私を乗せて、扉を閉める。
風見さんに頼んだと思われる袋を受け取り、少し話をしてから降谷さんも運転席に乗り込んだ。
ぺこり、頭を下げる風見さんに私も慌てて下げると、車が動いた。
しばらくは静かな車内。沈黙を破ったのは私。
「あ、あの零」
「なんだい」
怒ってるとは思うけど口調はそうでもなかった。
「ほんとにキリよく片付いたの?……本当に?」
「…僕はそこまで公私混同しているつもりはないんだけど」
信号待ちでハンドルに両腕を乗せる零。何を考えてるのかよくわからない。
「思ったより元気でよかった」
「…ごめんなさい」
彼が私の髪をくしゃくしゃにする。彼に視線を合わせると優しい顔をしていた。もう怒ってはいないようだった。
家に着いても零は私を歩かせてくれずに抱っこされ自宅に入った。
お手製の煮込みうどんを頂き、風見さんに買ってきてもらったと思われる薬も飲んで着替えてからベッドに寝かせられた。
「自分で言うのもなんだけどちょっと甘やかしすぎじゃない…?」
「そうかな?名前も甘えたらいいと思うよ」
体調が悪いときは心細くなるだろう?ーーそう言ってベッドサイドに座る零は私の額にまた手を置いた。ひんやりとした零の手のひらが気持ちよかった。
「さあ、もう寝たほうがいい。明日は少しでも熱があれば出勤させないよ」
「それは困るんだけど」
「はい、おやすみ」
その言葉で目を閉じたけれど、零に見つめられて落ち着かない。
「ねぇ、見るのやめて…」
「ちゃんと寝付くまで見てあげるのに」
「いいから!恥ずかしいから!やることあるんでしょ?」
「四の五の言わずに寝ろ」
鬼上司の片鱗が見えた…。
「は、はい」
掛け布団で顔の半分覆いながら目をぎゅっと瞑る。薬のお蔭で、すぐに睡魔がやってくる。
「零、ありがと…」
その言葉がちゃんと彼に届いたようで、彼はまた私の頭をくしゃくしゃにしてから額にキスを落とした。
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