「というわけでだな」
突然の上司の謎の言葉に、課内はざわついた。視線は私に注がれ、鬼上司をどうにかしろと痛いくらいに飛んできた。
最近の警備企画課は上司がおかしなことをしだすと私に宥めさせようとする節がある。
あの鬼上司・降谷のお守りは苗字に任せろというような。そんな風潮になったのは確実に風見さんのせいだ…。
しかし、彼は連日連夜で業務に当たっているはずなのでそろそろ無理矢理にでも寝かせないといけない。
睡眠薬でも混ぜる?いや、あの人はそういうことには異様に鋭い。
「降谷さん……一度帰宅してください」
「来たか苗字。ここなんてどうだ?」
「は?」
降谷さんは私にスマートフォンの画面を指先でトントンと叩いた。
よく見ると賃貸住宅の情報だった。
物件の上のコメントには同棲生活におすすめ、と記載されている。
「は?」
理解が追いつけず、もう一度同じ言葉を返した。
「苗字の家はもうすぐで更新時期だろう?どうだ、一緒に住むのは」
課内がさっきよりもざわついた。
「なんで知って……じゃなくて仰りたいことの意味がわかりません」
というか仕事をしていたんじゃないのかこの人は。否、仕事のしすぎで思考がぶっ飛んだのか。
「なんだ嫌なのか」
「いやそういうわけじゃ……じゃなくて!寝てください降谷さん!」
見たこともない不貞腐れたような顔をする降谷さん。こ、子どもか…。
これ以上降谷さんの失態を他の人に見せるわけにはいかない。
背後からはひゅーひゅーと賑やかしの声。だめだ…今ここにいる全員も徹夜ばかりの日々で疲れきっている…!!
「ああもう…降谷さん仮眠室に放り込んできます!」
降谷さんのスーツをぐいぐい引っ張り、降谷さん用の仮眠室に文字通り放り込んだ。
端正な顔立ちに酷い隈。少し休んだだけでは取り除けないだろう。
「名前」
大人しくソファベッドに横たわる降谷さんの手にスマートフォンが握られていた。
「寝室は分けたほうがいい?」
子どものようの顔をして笑う降谷さん。画面をフリックし次のページ捲ってああでもないこうでもないと呟く。
今は2人きりで冷やかす人たちもいない。彼を寝かせるためにも話に乗ってみようかーーーそうですね、と返し言葉を続けた。
「同じ家に居るのに別居ですか?」
「だよなぁ、キッチンとか希望はないか?」
「うーん…なかなか料理する時間はないですしね、降谷さんが使いやすそうなのでいいですよ」
現実問題としては引っ越しどころか物件を契約する時間もないと思うけど…。
私がソファベッドの端に座ると降谷さんはすぐに私の太腿に頭を乗せてきた。
「というか、というかですよ?」
「うん」
「私が今、降谷さんの家に住めばいいと思います」
キッチンも寝室もお風呂も勝手知ったるところだ。降谷さんの家なら二人で住んでもなにも問題はない。
身一つで今の家なんて出てしまえばいい。
目からウロコというように降谷さんがスマートフォンを自分の顔面に落とした。
「っだ!!…なるほど。それは盲点だ」
「大丈夫?ね、いい考えでしょう?」
「ああ、それでいつ来る?」
「まあそれは追々として、一先ず降谷さんは寝てください」
「いつ来るか決めるまで僕は寝ないぞ」
「子どもみたいなこと言わないでください」
ぺちっと額を叩く。目を閉じた降谷さんの顔はずっとニヤニヤしている。
「はは…たしかにな。なんなら今日からでもいいぞ。荷物なんて置いて行け、欲しいものがあったらいくらでも買ってやる」
「降谷さんには負けますけど、一応私も稼ぎはいいほうなんですよ?自分で買えます」
「そうか?そうだな。僕は……名前さえいればい……いつも……朝、悪い……」
電池の切れたおもちゃのようにぷっつりと降谷さんの意識は途絶えた。
私の太腿に流れるミルクティーのような降谷さんの髪は家に帰れていないのにさらさらで艶があった。するすると滑る。
起きたら、忘れているんだろうな。あれだけ疲れきっているんだ、夢かうつつかの狭間のやり取りだ。
そう思うと先程の会話が胸に刺さる。
『朝、悪い……』
それはいつもの約束の翌朝のことを言っているのだろうか。もしそうなら、私は降谷さんの重荷になっていないだろうか。
胸ポケットに入れた携帯が光る。降谷さんが起きないようそっと携帯を取り、メッセージを開くと先輩からだった。
降谷さんはちゃんと休めたか、私の仕事も少しは手伝えそうだから、私も少し休め、ということが書かれていた。
警備企画課のみんなは降谷さんと私も含めて徹夜続きだ。昼夜問わずに仕事し続けているのにも関わらず、私まで休んでいいのかと考えてしまった。
ーーいや、仕事しよう。降谷さんの仕事も片付けられるとこまで片付けよう。いつもは私が甘えてしまって降谷さんの負担になっているから。
複雑な気持ちを抱えながらも、寝ている降谷さんの顔に自分の顔も近付ける。
よく寝ている。少しの物音でも反応してしまう彼だけど、今なら大丈夫そうか。
そっと膝枕状態を抜け出して入り口に向かう。ちらりと降谷さんに向いて、言う。
「忘れないでくださいね」
さっきのこと。
口にはしなかったがそう強く思った。
部屋を出るときになんだか後ろからひらひら手が振られているような気配をして振り向くと、なにも体勢が変わってない降谷さんの姿。気のせいか、と考え脳内を仕事モードに切り替えた。
180501