『みょうじなまえとは君か』
初めて彼……新しい上司である降谷零と出会ったのを今でも覚えている。
『警察学校を首席で、というほどではないがトップクラスで卒業したにも関わらず、刑事部でもなく庶務で埋もれているとは……上はとんだ人選ミスだな』
私の経歴書を見ながらその人は言った。確かに今は充実しているとはいえ、配属時には思ったことだった。自分の力をもっと役に立ててほしいと思っていた。
それが、まさか異例とはいえ警視庁から警察庁への異動となり、ゼロの配下になるとは誰が予想しただろうか。隣に立つ、警視庁時代に顔と所属は知っていた風見さんも未だに納得はいっていなさそうな顔をしている。
『ここで警備第一課で培ってきた手腕を発揮してほしい。君の評判は聞いている。的確な指示、管理、報告は我々にも必要なんだ』
『…はい。必ずお役に立ててみせます』
降谷零とは忙しい人間だ。謎の組織に潜入調査で潜り込み、組織からの信頼を得るためになんでもやってきた。そのため、警察庁に来ることも少なく、だけど私が来たことによって彼の此処での仕事は前よりも減った。
書類の決済がスムーズだと同僚が喜んでいたこともあった。
『爆弾…』
目の前にあるのは爆発物。単純なものだった。今すぐに応援は望めない状況下で、このショッピングモールにはテロリストがどこかに潜伏しているという。
その情報を仕入れた私は降谷さんにすぐさま報告し、ほかの公安たちを連れてやってきていた。
屋上に近い非常階段に置かれたそれは間違いなく時限爆弾。日曜日のお昼時は混雑しているからこれが爆発すれば大変、という言葉では済まされないほどの犠牲が出る。
『…降谷さん。奴等の身柄の確保はお願いします』
『…なんだと?』
『このタイプの爆弾なら私でも処理できます』
『しかし』
『……警視庁の爆発物処理班のエースから教わりましたから』
『松田か…?!』
『…ご存知でしたか』
『…同期だ。あいつの腕なら信用できる』
『死んじゃいましたけどね』
ふふ、と笑って言えば、そうだったなと返ってきた。時限爆弾は残り30分を切っていた。悠長に話している時間はない。『さあ、早く。ここは任せてください』
『ああ、気をつけろよ…!』
あれは割と余裕で解除ができた。旧式の爆弾なんて今時使わないでしょ、なんて非現実なことを考えていたらすぐにテロリスト全員を確保したとの連絡が入った。ぽんぽんとそこから降谷さんの信頼を得ていて何ヶ月経っただろう。
月も出ていない真っ暗な夜。静かな警備局に忘れ物を取りに来た私は彼の涙を見てしまった。……厳密には見えていないけど、泣いている、ということはわかった。
『降谷さん?』
『みょうじか』
驚きつつも、見ないふりして声を掛ければ、彼も何でもないふりをした。
『今夜は月が見えないな』
『……はい』
『献杯に付き合ってくれないか』
奇しくもその日は同じ組織に潜入し、彼の仲間が亡くなった命日だと彼はスコッチ、という名のウイスキーの瓶を揺らしながら言った。
そのウイスキーと同じコードネームの彼は警視庁時代に一度だけ話したことがある。もうきれいさっぱりとその人のデータは残されていないけど、消される前に一度だけデータベースで見た。
"一緒にこの国を守らないかい?"
そういう意味だったのかと、納得した。
当時は公安部=その人が結びつかなかった
。だけど、その人はわかっていたのだろう。
充実した毎日の中、それでも私のやりたいことではなかった職務をうまく飲みつつも不満があるということを。
私だってこの国を守りたい、その気持ちがあった。現場で仕事をしたい、強く思った。
でも理想と現実は違うと言い聞かせてやってきた。
決して、手を抜いて仕事に就いたこともない。私の今やるべきことはこれなんだと。そして私の頑張りを認めてもらって今ここに立っている。
『降谷さん』
『なん……!』
小さなグラスに注がれたウイスキーを一気に煽り、降谷さんを私の腕に閉じ込めた。
『今夜は月が出てないです。暗くて私も前がちゃんと見えてません』
『…?』
『此処で降谷さんがなにしても、私は見えません。……だから、我慢しないでください。今だけは』
少し、間があってから、降谷さんは私の背中に手を回して小さく肩を震わせた。私はなにも気付かないフリをして、窓の外を見た。
月が出ない理由は貴方が仕組んでるんですか?なんてありえないことを思いつつも、降谷さんの頭を撫でた。
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「……また、懐かしい夢を」
降谷さん用の執務室基仮眠室だったりする小さな部屋で目が覚めた。ソファベッドで縮こまりながら一緒に眠った降谷さんはもうそこにはいなくて。私も慌ててジャケットを羽織って、部屋を出た。
トイレの手洗い場で身嗜みを整える。時計を見れば、眠ったと思しき時間から3時間ほど経っていた。外は若干明るいし、少しの睡眠時間でも目は冴えていた。
長い一日になりそう。
一日で済むかな、なんて自嘲は飲込んだ。
鏡に映る自分の首元には降谷さんに噛まれた跡。ボタンを締めれば見えない位置のそれに、この状況下のなかくすりと笑う。