「ゆっきー、ゆっきー」
「…春樹、名前で呼んでっていつも言ってるだろ?」

だって、ゆっきーの方が呼びやすくて馴染んでるんだよ、という俺の抗議の声は胸中に収めておこう。わざわざ教室二つ分も離れたゆっきーのクラスに来たのは用事があったからで。俺は本題を告げる。

「国語辞典持ってない?」
「…確か先週貸したばかりだよね?」

ぎくり、とゆっきーの言葉に思わず肩を震わせてしまった。確かに先週も俺はゆっきーに国語辞典を借りに来た。次はちゃんと持ってくるから、と約束付きで。

「約束はどうしたの?」

にっこりと清々しいくらいの表情で俺にゆっきーが微笑みかける。ああああ、怖い。同じクラスの雅治は柳生に、ブン太はジャッカルに。残ったのは真田と柳とゆっきー。テニス界では三強と呼ばれる人達で。

もし俺が真田に辞書を貸してくれるように頼んだならば辞典を忘れた事がバレてしまう。となると、貸してもらうよりも前に裏拳が飛んで来そうで借りるのは断念した。部活の時以外で殴られるなんて真っ平御免だ。

柳でも良かったんだけど生憎柳のクラスは次の授業が体育らしく俺が訪ねた時には既に移動した後だった。その為に柳に借りる事は不可能になってしまった。

つまり消去法で考えた末に残ったのは先週辞書を借りたゆっきーで。次の授業の担当は校内でも怖いと評判の岩田先生で。岩田先生に怒鳴られて恥をかくのか、プライドを捨ててゆっきーに借りに行くか。答えは簡単に導き出された。

「ふーん、春樹は約束破るんだ」

あー、もう、畜生。俺だって破りたくて破るんじゃねぇよ。嫌味を吐くゆっきーに心の中で抗議するも、その言葉を口にする勇気は俺にはない。もし言ったら後が怖い。

「何でも聞いてやるからさー、頼むよ」

もう俺は半分投げやりだったと思う。早くしないと授業が始まって岩田先生が来てしまう。いや、その前に俺は自分の教室に帰らなくてはならない。早くしないといけないのに。

「…じゃあ、キスしてよ」

いつもの俺なら顔を真っ赤にしてしまうような事を平然と笑顔で言ったゆっきー。多分ゆっきーは俺が顔を赤くするのが見たかっただけなんだと思う。だけど今の俺にはゆっきーの思い通りの事なんて出来るはずもなくて。

「……っ、」

ゆっきーの席が窓際でよかった。風に靡(なび)いていたカーテンを片手で引き寄せると俺とゆっきーを隠すように二人を包み込ませた。それから、優しく、だけど素早くゆっきーの唇に俺の唇を重ねた。休憩時間の教室の騒ぎ声なんて一瞬で俺の耳から消えた。カーテンに囲まれた世界に俺とゆっきーの二人だけみたい。

「精市」
「……」

珍しくゆっきーの名前を呼んでやれば、珍しいくらいにゆっきーの顔は真っ赤に染まってピクリとも動かなかった。あ、可愛い、なんて思ったけど急に俺の行動が脳裏に蘇って恥ずかしくなった。俺、教室でゆっきーに、キスを…。

「ご、ごめんっ…!」

もう恥ずかしくて自分でも何が何だか解らない。ただゆっきーの顔が見れなくて全速力でゆっきーのクラスから飛び出した。片手にはちゃっかり国語辞典を掴んで。




風に靡く
(席に座ったまま固まる真っ赤な顔の君と)
(真っ赤な顔で廊下を走る俺)
(柔らかい陽射しが降り注ぐ)
(ある暖かい日の春の出来事)