「おはよー…って、」

いつも通りの時間帯に朝練に来て、部室のドアを開けば最近と何一つ変わらない室内なのに昨日とは一つだけ違う事があった。

「おはよう、春樹」

机に座って日誌を見ていたらしい人物が俺に気づいて顔を上げた。そこにいたのはずっと立海テニス部が待ち望んでいた人で、俺の大切な人だった。

「精市…!?」

どうして、とか、もう大丈夫なのか、とか次々と浮かんでは消える疑問を口から出す暇もなく俺は精市を抱き寄せた。最後に精市を抱き締めた時よりも細くなった腰に腕を回しつつ久々の精市の髪に指を絡めた。

もしかしてこれは夢なんじゃないのか。そうじゃないと精市が部室にいるなんて有り得ない。だって精市は入院中のはずなんだから。そうだ、これは夢なのかもしれない。

「春樹…?」

抱き締めていた精市から体を離すと、近くにあったブン太のロッカーに思い切り頭をぶつけてみた。ゴンッと鈍い音が部室に響いたと同時に俺の頭にも鋭い痛みが走る。

当たり前だけど痛い。でもこれで夢から醒めたはずだ、と再び精市に視線を向けた。なのに先程とは全く変わらない精市がそこにはいて。少し衝撃が弱かったのかもしれない、なんて思いつつ再び頭をロッカーにぶつけた。

「…春樹、ついに頭が可笑しくなったのかい?」
「ああぁあぁあ!俺のロッカー!!」

部室に入って来たのはブン太で。俺が頭をぶつけているロッカーを見て一際大きな悲鳴を上げた。ブン太が叫ぶのも最もで。俺の石頭のせいでブン太のロッカーは軽くヘコんでいた。計三回は頭をロッカーと接触させたのに目の前にいる精市は先程までと変わりがない。

「本当に、精市…?…夢じゃない…?」
「夢だなんてどの口が言ってるの?この春樹の口かい?」

精市が両手で俺の頬をつねって広げた。当たり前だけど半端なく痛い。それでも目の前に意地悪そうに微笑んでいる精市は消えなくて。漸く夢ではないと理解した。

「精市!!」

夢ではないと理解したと同時に精市に抱き着いた。温かい体温も、俺に微笑む精市も、俺の名前を呼ぶ精市の声も、ほんのりと香る精市の匂いも、全部本物で。長い間待ち望んでいた感触を堪能する。

「ん、…んぅ…」

触れた精市の唇から咥内へと舌を這わせれば、精市も遠慮がちに応えてくれた。たったそれだけの事なのに凄く嬉しい。

「はい、ストーップ!!」

俺と精市のキスを邪魔したのは若干涙目のブン太で。彼の後ろにはいつの間にか立海レギュラー陣が気まずそうに立っていた。

「二人のラブシーン見てる俺達の気持ちにもなってみろぃ!あと川瀬!俺のロッカーどうしてくれんだ!」

ブン太が指を差した先にあったのは扉に凹凸のついたロッカーで。「丸井」と書かれたネームプレートが儚げに貼り付いている。そういえば先程俺が頭を打ち付けたんだっけ。

「お、おぉ…悪かったな…」
「そ、それでは…練習を始めるぞ!」

涙目で俺を睨むブン太に謝ると、俺と精市のキスを見て真っ赤をした顔の真田が声を張り上げて朝練が開始された。待ち望んでいたいつもの立海の風景だ。



「ふわぁー…だる…」

五時間目は俺の嫌いな化学の授業で。いつものように授業が始まって十分後に「頭が痛いので保健室行ってきます」と仮病を使って教室を抜け出した。向かうは屋上。

「な…、で…!」

表の階段を使うと先生に見つかる可能性があるので、裏にある非常階段を使って上がっていると誰かの声が聞こえた。それは聞き慣れた声で。不思議に思いながらも声の聞こえた方へ脚を進めた。

「…せ、いち…?」

俺の視界に広がるのは非常階段の踊り場に膝をついている精市の姿で。どうして普段精市に付き添っている看護婦さんがいないのか、なんて疑問も頭から消え去った。俺は慌てて精市に駆け寄る。

「精市!大丈夫か!?」
「…春樹…っ…」

精市の背中を擦りながら尋ねるが、精市はぐったりして俺に寄りかかってきた。こんなに精市の具合が悪いなんて気づかなかった。どうしよう、取り敢えず一刻も早く誰か呼ばないと。

「…春樹、…やめて…!」

誰か呼んで来よう、と立ち上がった俺の脚にしがみついたのは紛れもなく精市で。俺はどうして精市がこんな事を言っているのか理解出来なかった。

「びょ、いんに…戻るのは、嫌だ…!」
「馬鹿!そんな我儘を言ってる場合じゃ「春樹…!!」

俺の咎めるような声を遮って精市が悲痛な声色で叫んだ。俺の脚を掴んでいた精市の手がずるずると踊り場の床に落ちて、俺は慌てて精市の隣に屈み込んだ。

「て…にすが、出来なくなるのは、もう…いや、なんだ」

俺に懇願するような瞳で精市が俺を見つめた。精市の額には汗が滲んでいる。今もきっと辛いに違いないのに、どうしてそんな事を言うんだろうか。だってもし手遅れにでもなったら…。

「…春樹、…お願いだよ…」

一体俺はどちらを優先すべきなのだろうか。今の精市の願いなのか、これからの精市の身体なのか。どちらも俺には大切で、そんなの決めれるわけがなかった。

「…五分で体調が回復しなかったら病院連れて行くからな」

精市は俺の言葉に一瞬だけ目を見張ると直ぐにありがとうと言って微笑んだ。だけど精市のそれは苦しそうで。本当は五分経たずとも精市を病院に連れて行きたかった。けど精市はそれを望んでいないから。

「…はぁ、は…っ」
「…精市」

精市が俺に寄りかかっている今でさえも苦しそうな表情で精市は何かに耐えている。そんな精市に俺は何一つしてやる事が出来ない。どうして俺はこんなにも無力なのだろうか。

「…精市、ごめん…」
「春樹、――…っ!?」

何が、と精市が聞き返すより先に俺は精市の細い身体を抱えた。つまり姫抱きの体勢で。精市が何か言葉を発するよりも前に俺は踊り場から駆け出した。約束の五分はまだ経っていなかったけれど、これ以上精市が苦しんでいるのを見たくなかった。

「…春樹、ありがとう。我儘、聞いてくれて、嬉しかった」




蒼海に零れた涙
(そう言った精市の表情は穏やかで)
(俺は何一つ彼にしてやれないのに)
(出来るのは精市の願いを壊す事だけ)
(これが夢だったら良かったのに)