空が青いという不都合 | ナノ








先生は俺に教えてくれた。家族がいるという事は素晴らしいのですよ、と。俺に微笑みかける先生のあの顔を俺は忘れた事なんて一度もない。いつだって俺の中の先生はあの時のままだ。だけど、たまに先生は苦しそうな笑みを溢したような気がする。それが真実なのか、俺の記憶が真実とは違う事を記憶しているからなのか、俺には解らない。




「…何処だ、ここ」

むくり、と布団から起き上がれば見知らぬ天井が俺の視界に映った。身体にかかっていた布団がずれ落ちて、朝の冷えた空気が俺の素肌を撫でる。そのままの勢いで布団の中にいるナニカに目線を移し変えた。

「……誰だ、これ」

俺の隣には、裸の女が眠っていた。よく見れば、俺も同じ様に衣服を身につけていない。そしてこの部屋の配置、間違いなく遊郭である。記憶を遡ってみるも、昨日の記憶が全くと言っていい程にない。さてどうしたものだ、と裸のままで俺は一人頭を抱えた。

「……」

ここは間違いなく遊郭だよな。それは現在の状況からでも十分に理解出来る。だが遊郭で女を抱くには膨大な金額が必要になるのだ。つい最近この星にやってきた俺は遊郭に行くような金額など持ち合わせていなかったはずなのに、この状況は一体どうなっているのだろうか。

「…ん、…玄はん?」

俺があれこれと頭を抱えていると、同じ布団で眠っていた女が目を覚ました。寝顔からでも解っていたが、女はやはり美人だった。少し掠れた声で俺の名前を呼ぶ女の声が酷く色っぽい。だが残念な事に、俺の息子は低血圧な為に朝は元気ではないのだ。

「なあ、あんた」
「はい?どうかしました?」
「俺、昨日の事、覚えてないんだけど」

そう言うと、女は可笑しそうにくすくすと笑みを溢した。やはり笑い方も上品で美しかった。そうなると益々俺は不安になる。この様な上品で美しい女だ。一体どれくらいの金額が必要になったのだろう、と。

「玄はん、相当酔ってらしたから…」

無理もないと俺を慰めるように微笑みつつも、女は俺に昨日の経緯を上品な言葉で話してくれた。昨日俺は大層泥酔したまま吉原へ来たらしい。そしてそのままこの遊郭を訪れ、一目見てこの女に決めたらしい。昨日は激しかったですよ、と少し照れた様子で言葉を告げた女に俺は一層頭の中が真っ白になったような気がした。

「……ここの金額って、どれくらいなの?」

おそるおそる俺は一番気になっていた事を女に尋ねた。そして、女の口から出た金額に俺は一瞬奈落の底に落とされたような感覚に襲われた。その金額は俺の手に届かない様な金額だったのだ。過去の俺にお前は馬鹿かと言ってやりたい。女を抱くのは仕方ない、百歩譲っても俺だって男なのだ。だが何故金額も確かめずに俺は女を抱いたのだろうか。酔っていたからと言ってもやって良い事と悪い事があるじゃないか、と過去の俺に憤っても何の変化もないのだが。

「って、ちょっと待って」
「はい?」
「俺、お金殆んど持ってなかったはずなんだけど」

そうなのだ。俺は先日この星に戻って来たばかりなのであり、とてもではないが遊郭で上位の女を抱ける程の金額は持っていなかったはずなのだ。遊郭では女を抱く前に金額を支払う様になっている。過去の俺があのような金額を支払えたとは到底考える事が出来なかった。

「あぁ、玄はん、『コイツにつけといてくれ』ってお言いになったじゃあありませんか」

本当に可笑しな人、と優雅に笑う女が俺に紙切れを差し出した。受け取ってよく見ると其れは領収証の類の物であった。そして、其処に書かれている名前に驚いた。其処には確かに「坂田銀時」と書かれていたのだから。さっと血の気が引いたのが自分でも解った。慌てて俺が服を着出すので女は不思議そうに言葉を発する。

「あら、もう行ってしまわれるの」
「あぁ、ごめんな」

するり、と女の頬を撫でてやると女は小さく微笑みを溢した。何が可笑しいんだと俺が不思議に思っていた事が顔に現れていたらしく、女は優しい口調で俺に言葉を告げる。

「だって玄はん、優しいんですもの」

女の言葉に俺は益々疑問に顔を顰めた。その表情を見た女が可笑しいと言うように再びくすくすと笑う。

「普通だったら抱いて終わり、が此処の流れですから」
「?」

女の言った言葉は俺にはまだ理解出来なかった。女が「ほら、お急ぎになるのではありませんか?」と俺に優しく言葉を発するので、俺は先程まで忘れていた急いでいる理由を慌てて思い出した。そうだった、早く銀時の所へ行かなくてはいけないのだ。

「ねぇ、」
「はい?」
「もし良かったら、俺の家族になってくれる?」

着流しの腰紐を結び終えた俺が女に背を向けたままで問い掛けた。直ぐに女から返事がないのは、俺の突然の言葉に女が戸惑っているからなのだろう。普通の客は遊女相手にこのような事を言わないからであろう。先程女の言っていた事が俺にも漸く理解出来たような気がした。

「……残念。私はまだ此処にいなくちゃいけませんから」
「そう」

女の言葉に短く返事をして、俺は部屋から立ち去った。後ろで女がどのような顔をしていたのかなんて俺には解るはずもなく。遊女とは基本的に親に売られた者が殆んどだ。「まだ」と言う事は親の借金分をまだ支払えてないという事であろう。

「あーあっ。家族欲しいなあ」

遊郭の外で俺が呟いた言葉は、誰の耳にも届く事なく空気に溶けて消えた。




いつだって時代は動いている
(でも俺の時間は止まっている)