空が青いという不都合 | ナノ








前兆なんてなかった。その日の午前は少しだけ薄暗く曇った天気で。昼からは雨が降るでしょう、と銀時のお気に入りのアナウンサーが告げていたのを覚えている。あと数時間もすれば新八が昼御飯を作り始めて、神楽は定春と共に散歩に出掛けて、銀時は普段と何も変わらずソファーに横になってジャンプを読んでいたのだろう。




「今日は蒸し暑いネ。何か冷たい物が食べたいアル」
「…何にも聞こえない。銀さんは何も聞いてない」
「冷たくて甘い物が食べたいアル」
「…幻聴が聞こえる。玄、どうしよう。銀さん耳が可笑しくなっちゃった」
「銀時、アイスくらい買ってやれよ」
「そうアル、玄の言う通りネ」
「…返事がない、ただの屍のようだ」
「聞けこの糞天パァァァ!」

神楽の華麗な右ストレートが銀時の左頬に入った。そんな普段と変わりない万事屋の風景を眺めながらも、俺は苦笑を溢す。アイスなら俺が買ってやれば良いのだが、如何せん給料日前なのだ。俺も今回ばかりは金欠である。

「マダオなんてもう知らないネ。定春、散歩行くヨ」
「神楽ちゃん、もう行くの?」

普段よりも早い時間帯に散歩に行こうとする神楽に向かって新八がそんな言葉を投げ掛けた。そして、次に少年が発した言葉に俺は耳を疑う事になる。

「今日は曇ってるけど、もし晴れた時の為に傘を持って行きなよ。また倒れたらいけないし、いくら最強の部族の夜兎といっても太陽は天敵なんだから」

新八の声が、知らない人の声のように頭に反響している。神楽が目を見開いている事も、銀時が俺を一瞥した事も、今の俺とってはどうでも良かった。ただ、夜兎という単語が何を意味するのか、それだけを俺は頭の中で必死に考えていた。

「…や、…と?」
「玄さん知らなかったんですか?」

悪気なんて更々ないであろう少年の言葉が、俺の耳は間違っていなかったという事を確かにしている。神楽が夜兎という天人であるという信じたくないような事実が俺の頭の中でぐるぐると巡る。

「…どうしたんですか?みんなして固まっちゃって」

何も知らない新八が首を傾げるが、誰もその問いかけに答える者はいなかった。神楽が夜兎?俺があれ程までに憎んでいた存在が目の前にいるのだ。何も知らずに今まで同じ屋根の下で過ごし、何も知らずに同じ釜の飯を食っていた過去の自分に心底苛ついた。

「…銀時は、知ってたんだね」

俺が天人を憎んでいる事も、神楽が天人だという事も。俺の視線の先にいる銀髪の男は全てを知っていたのだ。銀時は何も答えない。いや、きっと答えられないのだろう。この場で俺の問いかけに答えるという事は何も知らない新八に俺が天人を憎んでいるという事実を告げると共に、神楽を大きく傷付ける事になるのだから。

「…玄、」
「散歩、行ってくる」

銀時が俺の名前を呼んだが、彼から視線を外した俺は誰の目も見る事なく万事屋から出て行った。そうでもしないと俺は目の前の天人を殺してしまうかもしれないから。昨日まであの可愛らしい笑顔を浮かべて俺の名前を呼んでいた神楽に手を出したくはなかった。




行く宛もない俺は通りをただ進む。賑やかな人通りを流れに逆らう事なく俺はそうするだけである。目に入る生物は人間が多い。だが時として天人が視界に映るのである。そんな現実に心底俺は腹が立った。突然この星にやって来てのうのうと甘い汁を吸っている奴等が気に入らない。俺達から先生を奪った世界はどうしてこんな醜い奴等を受け入れているのだろうか。

「…痛っ!おいコラ、何処見て歩いてんだ!」

肩に軽い衝撃を受けて、俺は視線だけを動かす。其処には俺とぶつかったらしい天人が大そう苛立たし気に俺を睨んでいた。ああ、また天人だ。どうしてこの街にはこんなにも天人が多いのだろうか。辰馬と一緒に宇宙にいた時は天人がいる事が普通だったのだが、この星では天人が道を歩いているだけでも異常に見える。それはきっと、この場所が奴等の本当の居場所ではないと俺が理解している所為だ。

「……」
「『ごめんなさい』の一言も言えないのか!?これだから地球人は猿以下だと言われるんだ。俺に逆らうとどうなるか身体に教えてやる必要があるみたいだな」

何も言葉を発しない俺に勝手に苛ついたらしい天人は何やら一人で喋ると、俺の腕を掴んで人通りの少ない裏路地へと強引に連れ込み始めた。天人に触れられているという事実が酷く不快であったが、今の俺には抵抗する気すらなかった。もう、どうでも良いのだ。

「……っ」

乱暴に裏路地の壁に叩き付けられて、俺の口から小さな声が漏れた。目の前の天人が警棒のような物を懐から取り出しているのを俺はぼんやりと眺めていた。どうして俺はこうも天人に絡まれるのだろうか。俺がそんな事を頭の片隅で考えていると、天人が気持ち悪い笑みを浮かべながら俺に向かって警棒を振り下ろした。

玄、家族というのは素晴らしいのですよ

先生の声が聞こえたような気がした。そうだ、俺はこんな所で堕ちるわけにはいかないのだ。先生が教えてくれた家族という物を手に入れるまで、俺は死ぬわけにはいかないのだ。俺達武士にとって死ぬとは自分の武士道を貫けなくなった時だと昔誰かが言っていたっけ。俺の武士道は、言わずもがな天人をこの星から追い出す事だと攘夷戦争に参加する前に決めたではないか。まだ死ねない。

「!」
「まだ、俺は、死ねない」

既に振り下ろされていた天人の警棒を避けると、俺は近くに廃棄されていた空き瓶を手に取る。そしてそのままの勢いで、手にしていたそれを天人の頭部に目掛けて力いっぱい振り下ろした。鈍い音と共に硝子で出来ていた空き瓶は簡単に割れてしまった。ぐらりと天人が地面に沈んでいくのがスローモーションのように見える。

「やめ、」

天人が言葉を発し終わる前に、俺は硝子の破片で躊躇いもなく奴の首を掻き切った。吹き出た天人の鮮血が俺の身体を濡らす。既に息絶えた醜い生物だった死骸を、俺は酷く冷たい瞳で見下ろしていた。何故こんな醜い奴等をこの世界は受け入れられるのだろうか。

「玄」

背後から聞こえた声に俺が反射的に振り返ると、其処には久しく姿を目にしていなかった男がいた。紫煙の香りが俺の鼻孔を掠める。確かあの男の手配書は小太郎の手配書の隣に掲示されていたのだという事を俺は頭の片隅で思い出した。




世界の綻びはもう直りません
(ぽつり、と空から落ちた滴は俺の頬を濡らした)