空が青いという不都合 | ナノ








「…あ、新八?俺、玄だけど。悪いんだけどさ、帰るの遅くなりそうなんだわ…あ、大丈夫、ちょっとバイトでさ」
「ちょっと玄子!ご指名だよ!」
「あ、はーい!…ごめん、そういう事だから!じゃあな」

電話先の新八にそう告げると、少年の返事も聞かずに半ば一方的に電話を切った。一方の新八は、通話終了音を聞きながら「玄子」と呼ばれたあの人は何の仕事をしているんだろうと不安に思う他なかった。




「玄子でーす」

今では出し馴れてしまった自分の裏声に鳥肌を立たせながらも、俺は目の前の中年男性に媚を売るように笑っていた。テーブルの上には沢山の空ボトルが転がっており、どうやらすっかり出来上がっているらしい。

「君、新入りなんだって?」
「そうなんですよ。まだ馴れなくって」

初々しさを装って困ったように眉を下げれば男は一層上機嫌になって笑った。男という生き物は初々しい女性に弱い。自分で言っておいてアレなのだが、俺もその分野の人間であるのだ。初な女の子を見るとキュンとしちゃうんだよね、うん。

「いやー、玄子ちゃん可愛いねぇ」
「あ、ありがとうございます」

中年の男に可愛いなんぞ褒められても全く嬉しくないのだが、なんとか愛想笑いで遣り過ごす。ただ俺を見ている男の瞳になんだか嫌な予感がした。それが何なのか今の俺には解らないのだが。

「そういう謙虚な所も、おじさんタイプだよ」
「…は、はあ…」
「ねえ、玄子ちゃん、」

唐突男に手首を掴まれて、ぞわりと肌が粟立った。酔っぱらいの相手は真面目にしてはいけない、と昔から言われているが今の俺にはそんなの無理だった。とにかく嫌で仕方がない。触れる男の手が汚いと思えてしまって、男への嫌悪感が次から次へと溢れ出る。いや、それでもこの男は客なのだ。下手な事をして西郷さんの顔に泥を塗りたくはなかった。

「良かったら…仕事終わりに会わない?」

耳元で囁くように呟いたこの男に、俺の堪忍袋の緒が切れた。俺を何処かのキャバ嬢だと勘違いでもしているのだろうか。俺は男であり、この店の規約にも「お持ち帰りはなし」と定められていたはずなのだ。規約すら守れない客ならば一発殴っても致し方ないだろう。

「すみませんが勘弁してやってくれませんか」
「!…こた…ヅラ子」
「まだ新入りなものですから」

突如俺と男の間に割って入ったのは小太郎だった。丁寧な言葉遣いをしながらも、小太郎は俺の手首を掴んでいた男の指を外す。背中に俺を隠すようにして男との間に座った小太郎になんだか酷く安心した。

「残念だけど、ヅラ子さんがそう言うんなら…」
「すみませんね」

謝罪の言葉を笑顔で紡ぎながらも、小太郎は空いた男のグラスへ酒を注ぐ。男に掴まれた手首を小さく擦っていると、小太郎の手が俺の手ごと其処を包んだ。

「…玄子、奥に入って別の手伝いしてくださる?」
「え、あ…はい」

そう言って小太郎は俺をあの男から引き離してくれた。その場から半ば逃げるようにして俺が奥へと小走りで歩いて行くと、其処には西郷さんがいた。

「ちょっと、大丈夫だったかい?」
「…あ、はい。なんとか」
「そうかい。なら良かったよ」

本当は私が行こうとしたんだけどね、ヅラ子に先を越されちまったよ、と豪快に笑う西郷さんが俺の背中を少し強めに叩く。どうやら俺を安心させてくれているみたいだ。その行為に安心して笑みを溢す俺を見た西郷さんは優しく笑った。その表情に「西郷さんがこの店の経営者で良かった」なんて思ったのは秘密。

「後でヅラ子に礼を言っておきなよ」
「っ、はい」




置き去りの心臓は黙って回転する


店の奥へ入り込むと、俺はぺたりとその場にしゃがみこんだ。小太郎が触れた手首が酷く熱いのは少なからず俺も酔っている所為だ。そう思わないと俺はこの熱を誤魔化せそうになかった。