ぼく、金魚 | ナノ







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少年が瞼を開いたのは夕方の出来事だった。金魚を水槽へと移し変えようとした時から既に七時間以上が経っている。長い間少年を観察していた神楽は少年が目を覚ました事に気づいて声を上げた。

「銀ちゃん、コイツ起きたアル!」

早く見てくれと言わんばかりに神楽は少年が寝ているソファーとはもう一つの別の物に寝転んでジャンプを読んでいた上司の腕を引っ張って少年の前に連れて来た。少年の朱色の瞳は天井を映したまま瞬きすらしない。

「おーい、生きてんのか」

銀時がひらひらと少年の眼前で手を振ると、少年はゆっくりと視線を銀時の手から彼の顔へと移動させた。少年の澄んだ瞳と銀時の死んだ魚の様な瞳とが互いに見つめ合う。少年の唇が薄く動いたかと思うと、小さく口を開いて、音を発した。

「―――――――…」

それは言葉ではなく、音。少年にとっては言葉を口にしたつもりなのかもしれないが、少なくとも銀時にとって江戸では一度も聞いた事のない言語だった。

「神楽、お前こんな言葉聞いた事ねェの?」
「知らないネ、こんなの。聞いた事ないアル」

何度も宇宙を旅しており銀時より天人に詳しいと思われる神楽に尋ねるも、知らないと単調に言葉を返されるだけだった。少年は不思議そうに銀時と神楽を交互に見つめるだけである。

「あー…アレだよ、アレ。お前の名前は?」

がしがしと困ったように銀時が右手で頭を掻き回しながらも少年へと尋ねた。勿論言葉が通じるとは思っていなかったが、何も聞かないよりは多少はマシである。ソファーに横になったままで少年は銀時を見つめる。

「名前だよ、お前のな、ま、え」
「……な、あ、え?」

銀時が強調した『名前』という単語を口真似してみたらしいが、少年の声は銀時が予想していたよりもか細くて高かった。隣では神楽が少年が喋った事に驚いて目を丸くしている。

「銀さん、もしかしてこの子、名前ないんじゃないですか?」

今まで台所で晩御飯を料理していた新八が顔を覗かせて問い掛けた。確かに新八の言う様に名前がないのかもしれない。だが何処からどう見てもこの少年が天人である事は明らかだった。金魚が人間に成長するなんて最早人間ではない。

「名前かァ…」
「私がつけてあげるネ!…えーっと、料理長か役場長か町長、他には…」

隣で神楽が一生懸命に名前の候補を考えているが、どれも可笑しな名前候補ばかりである。銀時はそんな神楽に溜め息を一つ吐き出すと、たった今思い浮かんだ名前を口に出した。

「…赤慧ってどうよ?」
「あっ、銀ちゃん狡いアル!」

せっかく考えたのに、と憤る神楽を視界の端に捉えながらも銀時は少年に瞳を向けた。少年は頭にクエスチョンマークを浮かべて銀時を見つめている。恐らく少年は一度言われたくらいでは理解出来ないのだろう。

「赤慧だ、あかえ」
「……、…あかえ?」
「そうだ。いい子だなァ」

少年、もとい赤慧の頭をくしゃくしゃと撫で回しながらも銀時は口許を緩ませた。神楽は頬を膨らませつつも恨めしそうに銀時を睨んでいる。

「あ、名前決まったんですか?」
「あぁ、赤慧だ」
「初めまして、赤慧くん」

志村新八です、と新八に手を差し出された赤慧は不思議そうに其れを見つめた。どうやら握手の意味すら赤慧は解らないらしい。何も知らないし解らないなんてまるで赤ん坊みてェじゃねぇか、と銀時は内心で溜め息を吐くと赤慧の手を掴んだ。

「赤慧、手を差し出されたら握手って事だ」
「っ…!?」

不意に手を掴まれて動揺する赤慧に構う事なく、銀時は新八の手と赤慧の手とを重ね合わさせた。にっこりと微笑む新八とは対照的に赤慧は戸惑いが隠せないらしい。

「安心しろ赤慧。新八はこう見えても無害な眼鏡だ」
「無害な眼鏡って何ィィ!?ちょっ、銀さん!赤慧くんに変な事吹き込まないでくださいよォォ!」
「……ぎ…さ、ん?」

ぽつり、と呟いた赤慧の声は空気に溶ける事なく新八と銀時の耳に届いた。自分の名前を呼ばれたであろう銀時はまだしも新八でさえもくるりと赤慧に振り返った。

「おぉ、赤慧。『銀さん』って呼んでみ」
「…ぎ、…さん…」
「ほら、銀さんだって。ぎ、ん、さ、ん」

何度も名前を繰り返しては赤慧に自分の名前を呼ばせようとする銀時に新八は溜め息を吐いた。これではただの親馬鹿の様ではないか、と。そんな新八の心中を銀時が知る術もなく。

「……ぎっさん」
「違うから!!それじゃまるで『ぐっさん』みたいだから!!」

どうやら赤慧は『ん』の音が発音しにくいらしい。やれやれ、と呆れた様な表情の新八が銀時の視界の隅に映ったが、特に気にする事もなく彼は再び赤慧に自分の名前を呼ばせようと四苦八苦していた。

「神楽ちゃんも赤慧くんに名前教えてきたら?」
「…別にいいアル」
「えっと…どうしたの?」

ソファーに乗ったまま三角座りをして不貞腐れた様な表情をしている神楽に新八は尋ねた。じとりとした目は赤慧を見つめていると言うよりは睨んでいると表現した方が正しいのかもしれない。

「…気に食わないアル」
「赤慧くんが?」
「…アイツが、アイツに……ヒロインの座が奪われるかもしれないネ!!」
「いやいやいや!赤慧くんは男の子だからね!?確かに綺麗な顔してるけど男の子だから!!」

背後から新八と神楽の馬鹿なやり取りが聞こえていたが、銀時は赤慧に名前を呼ばせる事に必死でそれどころではない。

「……ぎ、ん、さん…」

ぽつり、と赤慧の口から溢れた言葉は神楽と新八の言い争いに遮られる事なく銀時の耳へと届いた。

「赤慧!俺ァお前はやれば出来る子だと思ってたよ!」

余程赤慧に名前を呼ばれた事が嬉しかったのであろうか。銀時は目の前にいる赤慧の頭を抱き寄せて半ば乱暴にぐしゃぐしゃと撫で回した。頭の上を動き回る銀時の手を不思議そうに見つめながらも赤慧は何が起こっているか解っていない様子だった。




面倒にならない程度でいいよ
(まるで無垢な赤子みたいな少年)






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