ぼく、金魚 | ナノ







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その日、万事屋には朝から甘い香りが充満していた。それもそのはず。今日は世間ではバレンタインデーと呼ばれる日であり、友達とチョコを交換するのだと神楽が意気込んでいた所為である。

「ぎんとき!あのね、あのね!」
「…赤慧、頬にチョコ付いてんぞ」
「かたかったちょこがね!ぐにーんって!」
「あー、解った解った。解ったからこっち向け」
「ちょこがどろどろに…むぐっ」

未だに興奮したように話し続ける赤慧の頬に付着しているチョコレートを、銀時はティッシュで拭ってやる。神楽がチョコレートを作り始めてからと言うもの、赤慧は何か新しい事を発見する度にこうして銀時に見せに来るのだ。

「それでね!ちょこがね、どろどろになったの!」

瞳をキラキラと輝かせて赤慧は延々と話し続けている。そんな少年の話を聞き続けている銀時の表情は少し疲労の色が見え隠れしていた。朝からこの調子なのだから仕方がない気がする、なんて隣で銀時と赤慧のやり取りを見ていた新八は考えた。

「ちょっと!何やってるネ、赤慧!そんなマダオは放っておいてこっち手伝うアル!」
「はーい!」

神楽に呼ばれて赤慧は再び台所に戻って行ってしまった。そんな少年の後ろ姿を見送った銀時は小さく吐息を漏らす。

「…ぱっつぁん、」
「はい?」
「今って昼飯時だよな?」
「えぇ、もう正午を過ぎましたからね」
「なのに神楽がまだ台所を使ってるって事は…」
「…お昼御飯は諦めるしかなさそうですね」

万事屋の男二人は大きく肩を落とした。チョコレートを溶かしては固めるという作業を朝から始めているにも関わらず、神楽のチョコレート作りはまだ終わらない様子である。そしてそれに巻き込まれている赤慧は初めて経験するその作業を大そう楽しんでいる事だろう。

「…腹減ったなァ」
「口に出すと余計にそう感じるんで言わないでくださいよ…」

げんなりした表情で新八が銀時に対して文句の声をあげた。神楽が朝からチョコレートを作り始めてから早数時間が経過しているが、肝心のチョコレートはまだ出来ないのだろうか。早く神楽が目的を済ませてくれなければ飯すらままならないのだ。それだけは勘弁してほしい、という意味合いを込めて銀時は溜め息を一つ吐き出した。

「ぎんとき!ぎんとき!」
「赤慧…銀さん腹減って疲れてんの」
「どろどろだったちょこがね!まっくろに、なっちゃったの!」
「あーあー…神楽ちゃん、焦がしちゃったんですか」

赤慧の話を聞いて新八は溜め息交じりに言葉を紡いだ。先程から万事屋に漂う甘い匂いが焦げ臭い匂いに変化していたのはそういう事かと銀時は妙に納得した。その様子では神楽のチョコ作りはまだまだ長引きそうである。

「…てかチョコって直に熱しちゃ駄目なんじゃねーの?」
「普通はそうなんですけどね…まぁ神楽ちゃんの事だから知らなかったんでしょうけど」

銀時の眼前の赤慧は、彼と新八の間で交わされる会話を聞いて頭にクエスチョンマークを浮かべるだけである。そんな赤慧から香る甘い匂いが銀時の鼻孔を掠めた。

「…赤慧、良い匂いするなァ」
「いいにおい?」
「あァ、チョコの甘い匂いだ」

腹の減っている銀時は目の前に立っている赤慧の身体を自分の方へと引き寄せて、そのまま自身の腕の中に閉じ込めた。突然の事に赤慧は驚いて身を固くしたが、大人しく銀時にされるままである。

「やべ…まじで腹減ってキツいんだけど」
「っや…ぎんとき、くすぐったい…ふひっ」
「ふひって…どんな笑い方してんだお前」

赤慧の首筋に自分の鼻を押し付けながら、銀時はそう呟いた。先程からひっきりなしに鳴っている銀時の腹は既に限界を訴えている。

「ぎんとき、おなかすいたの?」

赤慧の問いかけに銀時は一つ頷いた。腹が減ったのなら近くのコンビニに行くなりして何か買って来れば良いのだが、実際はそうはいかないのだ。財布は台所に置いてある。だが台所を使っている神楽は決して銀時と新八を其処に入れる事を許さなかった。どうやら作っている過程を見られるのが恥ずかしいらしい。

「ったくよォ…財布取るくらい良いじゃねーか。なァ、新八」
「それはそうなんですけど…まぁ神楽ちゃんも女の子ですからね、僕達には理解出来ない心境があるんでしょう」
「おさいふ?ぼくが、もってこようか?」

赤慧の言葉に銀時と新八は、勢いよく朱色の頭髪の少年へと振り返った。そして数分も経たない内に赤慧は台所から財布を持って来たのである。どうして最初から赤慧に頼まなかったのだ、という銀時と新八の後悔を赤慧が知るはずもない。

「じゃあ僕と銀さんは近くのファミレスで外食して来ますけど…赤慧くん、本当に行かなくて良いの?」
「うん!ぼく、やりたいこと、あるから」

いってらっしゃい、と笑顔で赤慧に言われて、銀時と新八はそうするしかなかった。




「ただいまァ…って相変わらず甘ったるい匂いだな」

一時間後、外食を済ませて万事屋へと戻って来た銀時はそう呟いた。彼の後に玄関を潜った新八も同じような言葉を溢す。台所から物音が聞こえない事から判断するに、どうやら神楽は無事にチョコを作り終えたみたいである。

「神楽、赤慧?いねーのか?」

銀時が台所を覗いてみたものの、其処にはぐちゃぐちゃになった調理器具やチョコまみれになったフライパンと皿が転がっていただけだった。それを見た新八が溜め息を吐き出す。

「これ、誰が片付けるんでしょうか…」
「そんなもん神楽にやらせとけ。後片付けまでがバレンタインだって言うだろ」
「…初めて聞きましたよ、そんな言葉」

新八の呆れたような言葉に返事をする事なく銀時は居間へと足を運ぶ。玄関に神楽の靴がなかった事から判断するに、どうやら少女は作ったチョコを持って友達の元へと行ってしまったらしい。となると赤慧は何処へ行ってしまったのだろうか。

「…ってこんな所にいやがった」

銀時が目にしたのはソファーの上に丸くなって眠っている赤慧の姿だった。数時間前に銀時が拭ってやったにも関わらず、赤慧の頬にはチョコが付着しており甘い匂いを漂わせている。

「赤慧、赤慧。こんなとこで寝てっと風邪ひくぞ」
「ん、ぅ……ぎんとき…?」

銀時が赤慧の身体を軽く揺すってやると、朱色の頭髪の少年はうっすらと瞼を開いた。まだ寝惚けている所為なのか、少年の口から発せられる言葉は酷く辿々しい。

「しんぱち、は?」
「今頃台所で苦戦してんだろーよ」

苦戦の意味が解らないらしい赤慧は不思議そうに小首を傾げる。銀時も銀時でその意味をわざわざ教えてやる事を面倒に感じたらしく、それ以上は何も言わなかった。

「あ、」
「赤慧?」

何かを思い出したらしい赤慧は眼前の銀時に目を向ける事もせずに台所へと走って行ってしまった。取り残された銀時はただ頭にクエスチョンマークを浮かべるだけである。

「ぎんとき!」
「うお…!」

スピードを緩める事なく、そのままの勢いで自分の腰へと抱き着いて来た赤慧を銀時は何とか受け止めた。男の腹部に顔を埋めていた少年は顔を上げる。

「あのね、これ、あげる」

赤慧が銀時に手渡したのはお世辞にも綺麗な形とは言えないようなチョコレートであった。ラッピングが女の子向けの模様なのは神楽の余りを使用したかららしい。

「ばれんたいんって、すきなひとに、ちょこ、あげるひなんでしょ?だから、ぎんときに」

照れたように笑う赤慧を銀時はゆっくりと抱き寄せた。赤慧の髪の毛から甘い香りが漂う。銀時の右手には先程赤慧から手渡されたチョコがあったが、これを頑張って作っている赤慧を想像するだけで銀時の口元は穏やかに緩んだ。

「…ぎんときって、ぼくとはなすときとか、ぎゅーってしてくれるとき、しゃがんでくれるよね」
「あァ?そんなん意識した事ねェけど」
「それでも…ぼく、そんなぎんときのやさしいところ、すきだよ」

まるで時が止まったような感覚に襲われた。顔が熱を持つと言うのはこういう状態を言うのか、と銀時は一人考える。未だに赤慧の言葉が銀時の頭の中で反響していた。

「…いい年した大人が情けねェ」
「?」

独り言のように呟いた銀時の声に赤慧が首を傾げたのが解ったが、それでも銀時は少年を抱いている腕を離そうとはしなかった。いや、ただ離したくはなかったのだ。もう少しだけ腕の中にいる赤慧の存在を感じていたかった。

「…赤慧、サンキューな」
「なにが?」
「チョコ。銀さん甘いもの好きだから嬉しいわ」

銀時が腕の中に閉じ込めている少年にそう伝えると、赤慧は照れたような嬉しそうな笑い声を口から溢した。




チョコレイト・グラフィティ
(そんなバレンタインのお話)

2012/02/14 happy valentine!


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