なぜ古人は「変」と「恋」を似せたのであろう。「恋」は「変」であるからか。似て非なるものであるからか。たとえ似通っていようとも、そのふたつの文字は似せるべきではなかったのである。似せたゆえに、恋文の誤字で玉砕してしまう悲しき事件が引き起こされてしまうのだ。

否、少し格好をつけて「恋」などという文字を使おうとしたこと自体が過ちであるのやもしれぬ。すなおに「好いておる」でも「すけべしようや」でも書けば問題は発生すまい。何故わざわざ「恋」など使う。体裁ばかり気にする者など玉砕して当然。至極当然。

「おまえなあ、そんなことを話に来たんじゃないだろう」
「いまのは起承転結でいうところの『起』であります。これより『承』へと移りまして、」
「エリィ、おまえはほんとうに意気地なしになったな。いや、元からか?」
「失敬な。私はアキレウスも口をあんぐりと開けるほどの意気地ありです」
「じゃあさっさと本題に入れ」

霧隠上司に叱責され、私は不承不承ながら『承』をすっ飛ばすことにした。手元の書類を一枚めくり、下部の空欄にサインする。


ゆっくりと息を吐き、心拍を整えた。


「私が、どうやら恋をしているようだ、と言えば……霧隠上司は笑われますか」
「おまえも趣味が悪いよな」


ぴた、と三枚目をめくる手が止まる。


「アタシが気付いていないとでも思っていたのか?」

素知らぬ表情で書類の流し読みを続ける彼女を、私は茫然と見つめるほかなかった。私がこの話をするのは彼女が初めてであるし、そしてその話の渦中にいる人物の名前はまだ口に出してもいない。

だというのに、霧隠上司はすべてを知った風なのである。

「トムもそうだが、エリィも分かりやすいんだよなあ。まあ、あんな後だからその影響もあるんだろうが」
「きっ霧隠上司は、なにか誤解をなさっているのでは」
「獅郎だろ、おまえが好きなやつは」










私はそれはもう華麗に書類をデスクに置き、コーヒーが並々注がれたカップへと手を伸ばした。ブラックのまま喉に流し込みながら、首を左右に振る。

「ははあ、霧隠上司はおもしろいことを仰る。今日はエイプリルフールでしたか?」
「そのぶちまけた書類とコートにこぼしたコーヒーはどうするんだ」
「……シミになりますから洗ってきても構いませんか」
「さっさと行け」












「おまえなあ、ここ数日の奇行を思い返してみろよ。獅郎の話が出てくるたびに目は泳ぐは頬は赤くなるはで、獅郎本人を目の前にすると表情は無表情を保っているつもりだろうがいっつも手がモミモミ動いてんだよきもちわりぃ。挙句獅郎がいなくなると恋する乙女みたいにトロンとした顔で獅郎のいたところを見つめる。これのどこがラブコメの主人公じゃないっていうんだ、アァ?」
「不良に絡まれている気分です」
「働き者だなあ、エリィは」
「申し訳ありませんでした」

謝罪も聞き入れてもらえず、追加された書類の角をそろえた。溜息を吐く。まさか霧隠上司に知られてしまっているとは思わなんだ。そんなにわかりやすいのだろうか。


恋愛に勤しむのは、なにも初めてのことではない。この世に生を受けてから休まる暇もなく心臓をポンプさせていた。ちまたで噂のプレイボーイと呼ばれた、という誇るべき実績も持っている。

「おまえそれってあまりに恋人が出来無さ過ぎて教会で祈り始めた、っつー話からついた異名だろ」

なぜ霧隠上司がそれを知っているのか、いまは言及すまい。この二つ名は性春……もとい青春真っ只中(無論今も青春真っ只中であるが)の際に賜ったものだ。その頃のハンス少年は祓魔塾で勉学に励んでいた。霧隠上司との出会いはもう少し先の話である。


誇るべき通り名の話はまた今度詳細を話すとして、さて、何の話だったろうか。ああ、恋愛の話だったか。とにもかくにも恋愛をすることは初体験ではない。男子はその恥辱のあまり己の分身を責め立てたくなるような、女子はその崇高さのあまり無い胸を張ってしまうような、未経験者ではない。―――恋愛は。

それが成就したかどうかはさておき、ゆえに、たとい恋愛という世俗的な心境に身を置くことになろうとも、器用に立ち回ることができるはずなのだ。

「だというのに、何故……」
「そりゃあ、当時から不器用だったってことだろ」


そんな馬鹿な。


「別におまえの隠し方・誤魔化し方がへたくそなのはどうでもいいんだよ」
「どうでもよくありませんよ」
「どうでもいいよな」
「どうでもいいです」

反論するたびに増える白い紙。嗚呼、この紙がせめて恋文であったら良かったのに。

「エリィが問題にしたいのは、その気持ちをどうやって伝えるかだろうが」

霧隠上司によって、アイラヴユー、と書類の片隅に書かれた。そうそう、このような恋文だったらよいのだ。

「シ、ロ、ウ、っと」

断じてこのような恋文ではあってはならぬ。このような恋文でよいことあるか。三秒前のエリィ・ハンスは地獄を巡って再び現世に輪廻転生すればよい。煩悩を捨てきれぬまま己の業に潰されてしまえ。


提出用の書類であるそれは、直ちに焼却されねばならなくなったため、しかたなく余分な部位だけ切り落とした。屑箱が見当たらず、その紙きれは私のポケットの肥やしにするほかなかった。

「霧隠上司、私はそのようなことを相談したかったのではありません」
「じゃあなんだ」
「私が抱いてしまったこの苦悩を、どのように解消すればよいのでしょうか」
「直接本人に言うしかないな」
「選択肢がひとつしかないのは最終ダンジョンだけで十分です」
「だからいまがその、最終ダンジョンなんだよ」

もうすでに詰んでいたなんて、なんという無理ゲーにしてクソゲー。なるほど、これが人生か。これが真理か。これが宇宙か。我の眼前に広がりしはコスモなり。黒白で埋め尽くされしはコスモなり。サイン待ちの書類こそ、人類が求めたコスモなり。

「生まれて来て初めて哲学を得ました」
「そうか、良かったにゃー。褒美に偉大なる哲学者の面々に謝るための余地と寿命を与えてやるぞー」

私は五体投地の姿勢をとった。














なあ、と霧隠上司はペンを置く。

「そろそろ現実逃避はいいだろ、エリィ」

霧隠上司の声色は、実に真摯かつ冷静だった。


―――逃げられない。そう、悟った。


「いい加減、自分の気持ちと向き合え」

今まで押しつけてきたすべての書類を私の手からかっさらい、椅子を蹴りあげて起立するよう促される。それに従って腰を上げると、今度は足を蹴られて退室を迫られた。やはりそれに従ってドアを開ける。



「おう、エリィ。任務の時間だぞ」



そこには、私の脳内をめちゃくちゃに引っかき回して苦悩させている真犯人――こと藤本神父が、笑顔で立っていた。