さて、話も佳境に至ったところで再び自己紹介でもしようと思う。私の名前はエリィ・ハンス。正十字騎士團に所属する上一級祓魔師である。性別は生物学上女である。

この地球上に生を宿してウン十年、エリィ・ハンスという女は実在しなかった。しかし、私はいまここに存在している。

つまりどういうことか。

私、エリィ・ハンスという人間は、元来男として生きてきたにもかかわらず女へと変転してしまった哀れな子羊だ、ということだ。

原因も不明。科学的根拠も不在。だというのに、この異質を信じてくださった方々がいる。

己の上司である霧隠上司、フェレス卿、そして藤本神父だ。

彼らは心の内はどうであれ、私を男から女へとなってしまった者として扱ってくださった。きっとあの場で否定されていれば、私は立ち直ることが出来なかったであろう。

そうして三名の秘密共有者を獲得した私は、己の最大の任務へと向かうことになった。

―――立花フィオナ中二級祓魔師討伐ならびにその巣窟の壊滅。

立花フィオナは私というよりは俺の友人で、その友人殺しを私は任された。彼女に利用され、機密ファイルを盗難されたためである。

任務を伝えられたときは愕然としたが、きっと完遂できるだろうと高をくくっていた。しかし、その当日に女になるなどという奇想天外な事件が発生し、私は思いのほか余裕がなかった。ゆえに、任務では思うように動けず、結局同伴していただいた霧隠上司や藤本神父におんぶにだっこ状態だった。

結果として任務は完遂。代わりに藤本神父・霧隠上司は重傷、私は軽傷という代償を支払った。

その失態を挽回するべく、私は聖騎士すなわち藤本神父の補佐官として彼の怪我が完治するまで激務をこなしている。




―――以上のことをまとめて秘密事項を消去した状態で、始末書を提出した。



♂♀





起床時点から胸騒ぎがする。どことなく気だるさも感じられ、頭も熱っぽい。風邪でも引いたのだろうか、と最近の激務を思いやった。聖騎士補佐官という役職についてから、およそ休みと呼べるものがない。どこぞのブラック企業のごとく、まさしく死に物狂いで働かされていた。

しかし、それは喜ぶべきことなのだろう。己の状況と空気が読めるため、嘆息を漏らしながらこちとらも死に物狂いで働いていた。

あの任務の失態以降、上司の目が鋭くなったことは確かである。無論上司にとどまらず部下となろう者にも若干失望のこもった眼差しを受け取っている。たいへん要らぬプレゼントである。

若くして上級祓魔師の資格を習得したこの秀才に嫉妬する気持ちは分かる。天才の失敗ほど凡人にとっておいしいものはない気持ちも分かる。けれども諸君、それはひどく醜いジェラシーだ。煮ても焼いても食えたものじゃあない。



と、思ったけれども、どうやらそれは少し違うようである。

思い返せば自分はトム・ハンスではなくエリィ・ハンスであった。つまりあの失敗をしたのはトム・ハンスではなくエリィ・ハンスなのである。ゆえに、上司および部下からのあの視線は、「トム・ハンスのいとこが急に本部に回されて何事かと思ったが、期待はずれの実力だったようだ」の視線だったのだ。よいのやらわるいのやら分からん。

なかにはこの美貌に惚れたのか巨乳に興奮したのか存ぜぬところだが「オニイサンが特訓してあげようか」だとか「こっちに転職したらどうだ」だとか抜かす輩もいた。彼らは実に気の毒な雄共であった。あのような下卑た野郎を私のような高貴な女が相手にするはずもあるまい。
トム・ハンスでさえ、あのような真似はしない。霧隠上司のいる部署へ配属されようと躍起になったトム・ハンスはもっと清純かつ高尚な理由でゴマをすっていた。もちろんその頃より霧隠上司は豊満な乳房を獲得していたが、それは関係のない話だろう。







さて、話は冒頭に戻る。つまるところ、私は体調不良であった。くわえて言えば、それはこの扉の向こうにいる男が関係しているようであった。

私はこの扉の向こうにいる男――名を藤本獅郎というが――に用があるため、こぶしをつくって扉を二度叩いた。ちなみにこれは豆知識であるが、二回ノックをするのはトイレのときらしい。

「藤本神父、お迎えにあがりました」

何故いい齢のおっさんをこんないたいけなをとめが迎えに来なければならないのか。日々その疑問をこのノックに込める。だが、藤本獅郎という男にはこの行動は必要であった。もちろん、彼の逃走癖のために。



返事がない。
私は腕時計を見て、十秒カウントをする。十秒経った直後、ためらうことなくドアノブを回した。

「藤本神父、本日の任務をお忘れで、は、……」





そして、絶句した。







「ん、おお、エリィか。ちょっと待ってろ、いま着替え済ませるから」
「ししし失礼いたしました!」


藤本神父の台詞を最後まで聞くことなく、きびすを返して扉を閉めた。そりゃあもう派手に。
扉に背を預け、そのまま尻もちをつく。



思わず気が動転してしまった。藤本神父が半裸だったせいだ。



「……」

この言い方では語弊がある。藤本神父は着替えの途中だったがために半裸だったのである。どうやらこれからシャツなりなんなりを着るつもりで寝間着を脱いだのだろう。そのタイミングに私が入ってきてしまった。



確かに私は元・男である。人為的なものでも作為的なものでもなく、「自然に」出来あがってしまった元・男である。けれども、今は女だ。立派な淑女だ。小野妹子も裸足で――これはいささか使い込みすぎたか――まあなんであれ女だ。



異性の裸を見て少なからず性的興奮を覚えない人類が、生命が、どこにいようか。そんなものは病気なのだ。すぐにかかりつけ医のもとへ駆けこめ。
否、性癖は人それぞれだ。偏見はよろしくない。あくまで一般論としてご清聴願いたい。



つまるところ、私は藤本神父の半裸を不可抗力で拝見してしまった。ちまたで言うところのラッキースケベというやつである。
元・男の私としては興奮はしても嬉しくもなんともない。

しかし、藤本神父の肉体を見たのは初めてである。以前は(今もそうであるが)裸の付き合いではなかった。聖騎士という大層な称号をほしいままにしているだけあって、彼の肉体は古傷が目立った。それと共に普段はコートで見ることのできない筋肉も確認された。意外と背中は厚いようである。自分が元々細身だったこともあってか、あのようながっしりとして男らしい肉体というのはなんとも好ましい……。








好ましい?



ああ、また病気だ。これは病だ。おかしな病だ。変の病だ。漢字変換ミスではない。断じて言おう。これは、「変」の病であると!
混乱してきた頭をなんとかしようと髪の毛を掻きむしってみたが、余計に混乱するばかりであった。

頬が、身体が、火照る。脈拍も不安定。心臓が苦しい。汗も出てくる。

これは、まさか、






「狭心症ならびに不整脈……!」
「なに阿呆なこと言っているんだ」

いつのまにやら藤本神父が騎士團のコート姿で背後に立っていた。この扉が部屋の方へ押す押し戸でよかったと思う。藤本神父は私を見下ろして、怪訝そうな表情をしている。

「こ、これは、失礼いたしました。まさかお着替えの最中とは思わず、不躾にも扉を開けてしまい、」
「そんな細かいこと気にしなくていい。それより、お前なんで髪の毛乱れてんだ」

それはもうナチュラルに、スマートに、クールに、あらん限りの副詞句を用いても結局落ち着くところは、自然に、藤本神父は頭を撫でた。私の乱れに乱れ切った髪の毛を、男だったときと変化のない長さの髪の毛を整えるために。





ボン、と煙を噴いたのは、フェレス卿の手品であってほしいと今だけは願おう。




残念なことに「てじなーにゃ」とかわいく仰ってくれるフェレス卿は不在で、というかそのようなことをするフェレス卿はこの世に存在せず、現在の状況下で煙を噴くことができるのは私の頭か、藤本神父あるいは私の尻のほかなかった。









―――私の頭のほかなかった。



「……エリィ?」
「う、うわああああッ」



絶叫し、脱兎のように踏み切った。そして五十メートルほど全力疾走をした。オリンピック選手も顔負けの素早さで五十メートルは全身全霊で走った。





……五十メートルは。

そこまで走ったところで、私はくるりと反対方向――つまりは藤本神父の方へと向き直り、彼のもとまで早足で帰還した。


「どうした、もういいのか」
「よくはありませんが、仕事がありますので」
「おー、感心感心」

藤本神父は再び自然に私の頭上に手を載せようとしてきた。二度同じ轍は踏まぬと華麗に避け、銃を構える。

「これ以上私に触れた場合にはセクシュアルハラスメントだと裁判所に訴え勝訴します」
「今の状況だとお前が殺人罪で捕まるぞ」
「威嚇射撃です」
「じゃあ傷害罪だな」
「何にせよ私に近寄らないでください。反抗期を向かえた娘はお父さんの気軽なボディータッチを華麗なボディーブローで返すくらい嫌がるって知りませんか」
「そんな過激な娘は全国の父親も知らねえよ」

理解していただけたようなので銃を下し、なんとか安堵のため息を吐いた。貴重な体力を五十メートル走で使ってしまうとは。まだ休みは遠いのに。
もったいないことをしたと数分前の自分に喝を入れるべくこぶしを固める。

だが、そのこぶしは過去の自分へは届かなかった。







「しかし、あんな顔を真っ赤にするとは、……」

過去の自分へとつくったこぶしは、

「エリィ、もしかして俺に惚れちゃったのかァ?」

現在の藤本神父のあごへと躊躇うことなく飛んで行った。