ドアを三度ほどノックする音が聞こえ、返事をする。聞き覚えのある声が返ってきた。俺はドアを紳士的に開いて出迎えた。上司であり女性である彼女には丁重に応対しなければならない。下心はないと言いたいところだが、それを言うと嘘になるためあえて言おう。下心しかない。



いかがされましたか、霧隠上司。

「んー、いや、」

任務でしょうか?そのような連絡は入っておりませんが、

「トム、」



にっこり。このうえなく満面の笑みを浮かべる霧隠上司。思わずゾクッとした。もちろん恐怖ゆえにだ。


なんだこのかわいらしい笑みを浮かべる霧隠上司は。かわいい。愛らしい。俺に上目づかいを使うなんてロクなことを企んでいないのだろうけれど、俺の理性は本能に従えと言っている。理性が味方したのならばこちらのもの。俺は両手で霧隠上司の肩を掴もうとした。




しかし、それよりも先に霧隠上司の両手が伸びてきた。


えっ。


霧隠上司は的確な強さで俺の肩を押し、重心を傾けた。途端に視界が揺らぐ。



冷たい床の上に尻もちをついて、…いない。


そういえば後ろは己のベッドが置いてあるのだった。その上に着地し、なんとか痛みは逃れられた。


「今日はアタシもおまえも休みだにゃあ」



ニャア?




にゃあ【にゃあ】@ねこの鳴き声の擬音語。「ねこが『にゃあ』と鳴く」A人間(おもに女性)が甘えるときに発する言葉。「これを買ってほしいにゃあ」Bねこプレイ中台詞の語尾につける言葉のひとつ。「あたまおかしくなっちゃうにゃあ」


俺の頭の中の辞書はどうなっているのだ。二番目の項目はまだ許容範囲として三番目の項目は特別にいけない。例文もどこから引用してきたんだ。

それはともかくとして、いま霧隠上司は何と仰っただろうか。


「だーかーらー、アタシもおまえも休みなんだってば」

そ、それは理解しましたが、何故わざわざお伝えに……。

「伝えにきたんじゃないな。休暇をエンジョイしにきたんだよ」

霧隠上司はそう言って俺のベルトの留め具を外した、って、なにをなさっているんですか霧隠上司落ち着いてくださいご乱心じゃあお殿様がご乱心じゃあデアエデアエ。

「うっせえなあ。トムはうれしくないのか?アタシとこういうことしたくないのか?」

したいです。










ちがうちがう。そうじゃない。何故こんなことをなさっているのかと。こういうことはお互いの了承および快諾を得てから行うものであり決して独断で行ってはなりません。それが許されるのは画面の向こうのみです。よくある猥褻図書はきちんと快諾のうえ行われているのであれは合法です。そして独断は違法です。

「そっかあ、じゃあやめよう。おまえが嫌ならやってもにゃー」

いえ、そう言わず。どうぞご自由にしてください。今のは前戯のようなものですから。

「なんだよおまえ。面倒くさいな」

形式上しておいたほうがよいかと思いまして。って、台詞の途中で始めるのやめてください。

「ふふ、さあて、」




頭の中でサンバが始まった。理性も本能も葉っぱをつけて騒いでいる。念願が叶ったと言わんばかりの様子だ。この後どんな苦悩が待っていても構わない。写真を拡散すると脅されても構わない。俺は幸せです、母さん。




「いただきま、」



いま、快楽への扉が、社会の窓が開かれる。



……。



「……」



……。



「……」



……、あれ、霧隠上司?

「なァーんつってにゃ」

は、

「ぷぷぷ、なんだよその顔。本気でアタシがこんなことすると思ってたのか?」



嘲笑しながら俺の上から降りる霧隠上司。呆気にとられて取り残される俺。



「馬鹿だにゃー、冗談に決まってるだろ?しかもよりにもよってトムにこんな、なあ?」

き、きりがくれじょうし、まさか俺を、

「ちょーっとからかっただけだよ。ぷぷ、あー、おもしろかった」







今度の酒の肴にするから楽しみにしとけよ。そんな呪いの言葉を残して霧隠上司は立ち去って行った。それはもう軽快な足取りで。

どういうことだ。ああ、なるほどこれがほんとうの、


「生殺しってやつか……」


少しでも霧隠上司を信用した俺が阿呆だった。俺ひとり阿呆だった。孤独に盛り上がり孤独に冷めゆくこの心。自慰の後の虚無感とよく類似していた。

サヨウナラ俺の純潔。明日には騎士團中にこの失態が広まり、俺は一躍三枚目となるだろう。二枚目な三枚目。何も笑えやしない。









「なに深く溜息吐いてんだ?」


今度の来訪者は藤本神父だった。今日はよく人が訪れる日だ。俺が休暇だと知ってのことだろうか。


「その様子じゃ、またシュラにからかわれたんだろう」


この人は勘を的中させるのが本当にうまい。その第六感が羨ましい。そして憎らしい。




そのとおりです。またからかわれました。それも後世まで語り継がれそうな規模の恥辱にまみれた結果に終わりました。

「目が死んでるぞ」

目どころか身体まるっと死にたいです。もう俺は生きていけません。この世を早々に立ち去り霊となって再び物質界に降り立ちましょう。そして霧隠上司にセクハラして成仏します。祓われる前にひとりでに成仏してみせます。

「まあまあ、そんなこともすぐ忘れられるようになるさ」

今世紀最大の恥辱を一瞬にして忘れられるはずがありません。同等に匹敵するくらいの幸福がないと忘れられませんよ。



「ふーん、じゃあ、同じくらいの幸せがありゃあいいんだな」







既視感というか、つい数分前の出来事と同じことをされた。肩を押されて馬乗りされる。霧隠上司ではなく、今度は藤本神父に。暫時何が起こっているのか全く持って理解不能だった。



藤本神父・オン・ザ・俺。



何の冗談だ。今度こそ冗談だ。いやもう否定するまでもなく確認するまでもなく見紛うまでもなく冗談だ。



ふ、藤本神父、お気を確かに。

「俺は冷静だぞ」

もしかして朝からクイッとやられたのですか。

「素面だな」

それでは何かに取り憑かれていらっしゃるのでしょう。

「俺がそんな弱い心の持ち主に見えるのか」

……、藤本神父、お顔が近うございます。

「悪魔が憑いている顔に見えるか?」

ちっとも見えませんので離れてください。

「なんだ、うれしくないのか?」

霧隠上司と同じ質問をしないでください。

「さすが俺の弟子だなあ」

そう言いながら手を滑らせないでください。





藤本神父、あなたがお触りになっているそれは、どう見ても硬いでしょう。俺は男ですよ。藤本神父がお好きな巨乳な女性ではありません。

「なに言ってンだ、おまえ」


ぽかんと呆けた顔がふたつ並ぶ。






「おまえは女だろうが、エリィ」






その言葉に思わず己の身体を見返す。

豊満な胸に、しなやかな四肢、それは紛れもなく、





「お、おんな、だ」





「だろう?だから、俺がこうすることも不自然じゃねェってことだ」
「ちょ、ちょっと、まって、待ってください、藤本神父、」


俺の歯止めの言葉も一向に無視して、如何わしい手つきで俺の身体を撫で回し始める藤本神父。




「や、や、」




頼む、これが夢なら醒めてくれ。




「やめてください藤本神父!」







バッサアと華麗に舞ったのは、薄っぺらい毛布だった。