俺か、私か。トムか、エリィか。

自分の内を占める疑問はそればかりだった。いわゆるアイデンティティーの崩壊である。

否、自分自身のアイデンティティーは確立している。そこではなく、もっと生物学的な観点から見たところによる性別というものの崩壊である。

自分の性別は一体何であるか。

両性と呼ぶには身体が女に寄りすぎているし、脳みそが男に寄りすぎている。生物学的には女であるが、男から女へと転換するなんて、生物学者もびっくりだ。エスエフ作家も仰天だ。

この際女でも構わない、と考えたことがある。女風呂も女子トイレもプールもスカートの中も見放題なのだ。涎が留まることを知らない。下衆のごとき笑みを浮かべながら女子の身体を舐め回すように見ても変態扱いされない。いっそのこと舐め回しても変態と見なされない。女子とは平気で胸を揉み合う仲なのだと聞いた。ソースはAVと自論だ。

しかし、一体全体それはいつまでの話なのだろうか。いつまで女であり続ければいいのだろうか。際限があるから夢心地でいられる。では、際限がなければ?無論、夢など見ることはできない。

この十数年間男で生きてきた自分に今更女として生活しろだなんて、無茶な相談だ。それこそ男子トイレにうっかり入ってラッキースケベが発生するにちがいない。しかし残念なことにそのラッキーは男にとってのことであり、女となった自分にはちっともラッキーではない。むしろアンラッキーだ。貴殿らのムスコを見たところで何も得はない。それで喜ぶのは一部の女優と一部の女性だけである。

結論を言おう。

俺は男に戻りたい。男に戻ることができなかったら、この先できないままだとしたら、俺はもう―――。



♂♀




靄がかかったような視界はほとんど白色だった。ああ、病室か。すぐに理解した。鼻につく薬品の香りと、清潔を象徴する白色と、ずいぶん硬い敷布団が、その証拠だ。

身体を起こそうと少し身じろぎをする。微弱な痛みを察知した。それは右足を起点としていた。そういえば、蛇に咬まれたのだった。

途端に記憶がよみがえる。

そういえば、そういえば、と脳内であらゆる記憶が呼び戻される。そういえば、自分は男から女になってしまっていて、自分の過失による任務で失態をさらして、


「目、覚めたか」


この隣にいる藤本神父に大怪我をさせてしまったのだった。


「お前が言いそうなことは大体分かるが、まずはこっちの質問に答えてもらうぞ」

拒否権を与えない質問の仕方だった。拒む理由も権利もないので、口を開く前に首肯した。

そこからは、すべて事務的な質問だった。容態や任務状況、その他諸々、面白くも何ともない質問を十ほどされた。

「……よし、終わりだ」

お疲れさん。いつもの調子で呟いて、隣にいた看護師にファイルを手渡す。看護師はそれを受け取ると、すぐに退室した。つまり、この病室にふたりきりだということになる。おそらく藤本神父なりの配慮だろう。

「あの、」

その配慮を汲み取って開口したが、すぐに手で制された。

「申し訳ありませんだとか、すみませんだとかはもう聞き飽きたんだよ。もっと他のことを言ってくれ。つまらねェ」
「で、では、謝罪をします」
「分かってやってんだろ」
「モチのロンです……」

勝手に気まずさを感じて自分の手元に視線を落とす。心の内には謝罪以外の言葉が思いつかず、何も話せないのだ。口を開けば、謝ることしかできない。それ以外分からない。自分が、どうしたらよいか。

「俺は少しめずらしく感じたんだよ」



藤本神父は、ぽつりと、突然そんなことを呟いた。何のことだか分からず、「は……?」と問い返した。

「トムにしては、めずらしく取り乱していたじゃねえか」

何気なく「トム」と呼ばれたことに対して、いくらか動揺する。しかしそんなことには構わず、藤本神父の言葉を頭の中で反復した。

めずらしく、取り乱していた。

「初めて男から女になったって分かったときでさえ、お前あんまり驚いてなかったのにな」
「そんなことは、ありません。動揺して、混乱していました」
「俺らには伝わらなかったくらい、それは微弱なものだったんだよ」

ぼんやりと今朝方のことを思い出す。自分の中では驚き戦きテンテコマイのように思っていたが、確かに立花フィオナ討伐のときほど動揺してはいなかった。それよりもずっと過去を振り返ってみても、あそこまでかき乱されたのは初めてではなかろうか。

「ま、無理もねえか。性別が変わるなんつーことは生まれてこの方経験したことないだろうし、」



たばこを取り出し火をつけようとして、手を止めた。






「友人を殺せなんざ言われることだって、初めてのことだろうしな」



眼鏡の奥で赤目が光る。

「……、はは、そう、ですね」

口から漏れたのは、同意と苦笑だった。



立花フィオナを殺せ、と言われたときでさえも冷静さはそれなりに保つことが出来ていた。けれども、いざその現場に行った途端、まるで溜め込んでいたものを全てぶちまけたかのように、困惑と恐怖と同情が一度に押し寄せた。


それが起こったのも、きっとこんな身体になってしまったからだろう。


以前はずっと理性的だった。しかし女になってからはどうだ。驚き呆れるくらい、感情的になってしまっている。こんな感情を抱くことなんて、なかったはずだ。こんなに苦悩することだって、なかったんだ。

なんで、どうして、

「俺は、女になってしまったんでしょう、」

答えのない、問いだった。藤本神父だって誰だって、知るはずのないことだった。強いて言えば、神のみぞ知る、だろう。



それでも、藤本神父は、



「それを知って、お前はどうするんだ?」



俺を、導いてくれるんだ。




「知ったところで元に戻れるかの確証もねえし、戻れたところでお前の失敗がチャラになるわけでもないだろ。お前はトム・ハンスだった。そしてエリィ・ハンスになった。それでいいじゃねえか」

「し、しかし、」

「ああもう、起こってしまったことは仕方ねえだろ!ましてや天変地異や奇々怪々ならなおさらだ!対処の仕様がないことをいつまでも語ったって、時間の浪費に過ぎねェだろうが。それよりも、お前は考えるべきことがあるだろ」

「考えるべき、こと、」

ずい、と藤本神父は怪我をした左腕を、俺の鼻先に突きつけた。



「己の失敗をどう取り戻すか、だ」



つい耐えきれなくなってそれから、現実から目を逸らす。暫時悩んで、再び前に向き直った。

「全治、どのくらいでしょうか」
「あー、いつだったっけな。何カ月かだ」
「曖昧ですね……」
「まだ若ェから怪我の治りも比較的早いんだよ。医者が診たよりも、早くに治っちまう」
「……、藤本神父、」
「なんだ」
「俺、…私は、どうしたらよいでしょうか」

血はもう滲んでいない白い包帯。フィオナの牙によって咬まれた腕。俺のミスにより、生じてしまった傷。

俺は、俺の罪滅ぼしをしなければならない。迷惑をかけてしまった藤本神父や霧隠上司のために、そして俺自身のために。

「ちったァ自分で考えろ、と言いたいところだが、上司として助言をしてやろう」
「あ、ありがとうございます」
「エリィ、俺の補佐をやれ」



……。



「ほ、補佐、ですか?それは、具体的に、」
「見ての通り利き腕じゃねェとはいえ腕を怪我しちまったんだ。これのせいで仕事出来ないから俺休むわ、と言いたいが、社会っつーのはそれほどうまくは出来てなくてよ。こんな腕でも仕事をしろと言う輩がここには腐るほどいやがる。似非紳士とかな」
「失礼極まりない男ですね」
「誰もお前のこととは言ってねーだろ、メフィスト」

音もなく藤本神父の隣に現れたのは、朝以来のフェレス卿だった。フェレス卿はまばたきの内に俺のベッドのわきに立っていた。どうやって来たんだ、などという質問は、今や意味を為さない問いである。

「フェレス卿、いらしていたんですか」
「ちょうどいま来たところですよ。おはようございます、エリィさん。お加減はいかがです?」
「おかげさまで、なんともありません」
「それはなにより。

 ところで、先ほどのお話ですが、」

パチン。軽やかに指が鳴らされ、俺の周辺一帯が白い煙に包まれる。いきなりの出来事に驚き煙を大きく吸い込んでしまって、ゲホゴホとむせ返った。

ようやく煙が晴れる頃に肩付近の違和感に気づく。何かが掛けられているような気がする。どうやらそれはたすきのようであった。白と赤の、よくあるあれである。そこに書かれている文字を見ると、

「聖騎士補佐官就任、」

問いかけるようにフェレス卿の顔を見上げると、楽しげに片目を瞑られた。

「私直々にエリィ・ハンス祓魔師の聖騎士補佐官への就任を認めましょう」
「直々にって、というかお話聞かれていたんですね…」
「細かいことはいちいち気にすることじゃありませんよ」
「良かったじゃねえか許可が下りて」
「え、は、はあ…、って、まだ了承していなかったのですが」
「なんだ、嫌なのか?」
「い、嫌では、……ありません」
「じゃあ、決まりだな」

よし、と呟いて藤本神父は立ち上がり、俺の手元に資料の束を落とした。




なんとなく、嫌な予感がした。




「初仕事だぜ、エリィ。この前の任務の報告書、きちっとまとめておけよ」
「えっ、」
「ちなみに、エリィさんは三日間ほどお休みになられていたので、その分の仕事がデスクに溜まっていますよ」
「はっ、」
「そいつも片しておいてくれ。あと、身体を慣らすためにも鍛錬しろ。シュラにでも付き合ってもらえ」
「ちょ、」
「明後日に早速任務入ってるから、補佐官として頼むぞー」


絶句。



待て、俺は三日間も寝ていたのか?否、今はそんなことはどうでもよい。問題はこのものの数秒で任された仕事だ。俺にとっては昨日だが実際には先日の任務の報告書に、三日間分のデスクワーク、あとは明後日に藤本神父の補佐官として任務への参加、それに伴って衰えてしまった身体を鍛錬する―――。これはどこぞのブラック企業だろうか。とても聖職とは思えない。


「おお、神よ。汝は我を見放されたのでしょうか」
「現実逃避してねえで、さっさと仕事するほうが身のためだぜ。なんたって、」


白い歯と眼鏡が蛍光灯に反射してキラリと光る。




「己の失敗を取り戻すんだもんな!」




「……アーメン」


俺は、ようやく重い腰を上げた。