着替えの詳細は明かさない。決して明かしてはならない。これは俺だけの秘密である。ただ思いのほか時間がかかったとだけお伝えしておこう。
諸君、自分が異性になったときの妄想くらいはしたことがあるだろう。そのとき真っ先に何をするだろうか。俺ならば、己の視神経をフル活用してあるものを確認する。つまり、そういうことだ。

こういった事情があり、更衣に時間を要した。ゆえに、俺は現在あらん限りの体力と脚力を駆使して待ち合わせの場所へと急いでいる。以前よりもぐっと脚力が落ちた気がする。俺はこんなに足が遅かったのか。否、そうではない。
原因は先ほどから異常なまでに揺れてみせるこの胸元の脂肪にある。速度を上げれば上げるほど、この豊胸が上下に揺れるのである。そのたびに重みと痛みが脳髄に響く。まったく、巨乳も困ったものだ。
こんなものを持ち合わせていながら、女子はなぜあれほどまでに速く走れるのか。霧隠上司など、俺よりも機敏である。俺と同等ほどの胸を持ち合わせておりながら。

ひたすらに揺れ続ける己のそれを見下ろす。任務に支障は出すのでないぞ。それ以外ならばお前はすばらしい存在なのだから。励ますように軽く叩けば、弾力溢れる返答が返ってきた。うむ、よいぞよいぞこの弾力。
走りながら声援を送ったせいか、前方不注意となってしまった。人の気配を察知して顔を上げたときには遅かった。ドン、と誰かと衝突してしまった。

「あいててて、」
「すみません、大丈夫ですか」

鈴のような声から女性だと認識すると、俺はすぐさま紳士的に手を差し伸べた。角でぶつかるようなハプニングを起こすのは美少女と決まっているからである。人を見た目で判断してはならないが、先入観や第一印象というのは人付き合いにおいて重要な要素なのだ。

「ごめんね、前向いてなくって」
「いえ、」

俺も前を向いていませんでしたのでお互い様ですよ。と、光源氏も度肝を抜かす爽やかな笑みを浮かべようとした途端、本能か理性か、どちらかのために俺の口は固く閉じた。そういえば忘れていた。
俺は、現在あのトム・ハンスという美青年ではないのであった。もとより美青年ではないだろうという鋭い指摘をした読者の諸君、小生の顔も知らずにそのようなことは申してはならない。とりあえず、俺は今エリィ・ハンスという美少女と化してしまっている。そのことは、決して失念してはならないことであった。

「私も、前を向いていませんでしたから。すみません」
「いいえ、こちらこそ。あら、トムじゃなかったのね。てっきりあの阿呆かと」
「阿呆とは失礼な」

むっと顔をしかめると、冗談だとぶつかった女性は笑った。
彼女は俺もといトム・ハンスと同期である祓魔師のひとりだ。名は、立花フィオナという。父親が日本人の資産家で、正十字騎士團の中でもなかなかの立ち位置らしい。同期の中ではおそらく最も仲の良いと断言できるだろう。


「あなた、トムにそっくりね。もしかして、噂のトムのいとこさん?」
「噂、ですか」
「ええ、トムのいとこが入団してきたって、誰かが言っていたわ」

なんて手の早い。さすが名誉騎士殿である。俺はそれを肯定し、エリィ・ハンスだと名乗った。立花は傷一つないほっそりとした手を差し出し、握手を求めてきた。

「私は立花フィオナ、トムと同期よ。あいつとはまあ、仲良くやっていたわ」
「そうですか。トムがお世話になっております」
「ふふ、ほんとう、そうね」

ふと、立花の持っている鞄を見やる。肩に掛けるタイプのもので、何やら重そうなものが入っている様子だ。それに気がついたのか、立花はさりげなく鞄を自分の背のほうに回した。

「エリィ、あなたこれから任務なの?」
「はい。立花、さん、は、」
「フィオナでいいわ。私は少し暇ができたから、近くの実家に帰省するの」
「そうですか。では、お気をつけて」
「それはこっちの台詞よ。エリィこそ、気をつけてね」
「ありがとうございます」

初対面らしく頭を下げて立花とは別れた。さて、また時間をかけてしまった。立花がある程度の距離まで歩いたのを確認すると、再び全速力で駆け出した。



♂♀




「霧隠上司、胸が地面に着いてなかなか体勢を固定しづらいです」
「阿呆なこと言ってないでちゃんと構えてろ。馬鹿にしてんのか」
「滅相もありません」

以前の俺ならば、霧隠上司とこんなに至近距離で肩を並べていたら、きっと心臓の高鳴りに耳を塞いでいただろう。
しかし、俺は変わってしまった。なんとも厄介な生物――女に。ふうと溜息を落として、仕方なくやわらかな胸を冷たい石に押し当てた。

ざわり。突如、空気が揺れた。

「お出ましだぞ」

霧隠上司の言葉に、俺は頷いてみせる。そっと岩の陰から見下ろせば、目当ての人物がヒールの音高らかに洞窟へと入ってきていた。先ほどぶつかったときと何ら変化のない姿だ。

「異常は、ないわね」

凛とした声が響く。それに答えるように、空気を抜くような音が洞窟中に響き渡った。彼女はそれを聞いて満足げに笑った。そうして肩に掛けていた鞄を、中央にあった机を模した石の上に置いた。

「やっと手に入れたの。これで、満足してくださるはずよ」

愛おしげに鞄を撫で上げる彼女は、まさしく正十字騎士團祓魔師の―――立花フィオナであった。

その刻をじっと待ちながら、俺は今回の任務内容を思い返していた。



♂♀





俺が女になる一週間前のことであった。

俺は半拘束状態で三賢者の前に連行されたのである。拘束が解かれ驚愕を露わに顔を上げると、そこにはフェレス卿、藤本神父、霧隠上司、そして三賢者という恐ろしいメンバーが俺を見下ろしていた。ぞっとするような悪寒に見舞われていると、緊迫した空気の中に重々しい声音が轟いた。

「トム・ハンス上一級祓魔師、あなたが何をしたか自覚はありますか」

すぐに首を横に振った。その所作に、フェレス卿が指をパチンと鳴らして「では私が説明しましょう」と楽しげに声を上げた。わけが、わからない。

「昨晩、何者かによって正十字騎士團の機密情報ファイルが盗まれました」

そうしてすぐに事態を把握した。すべてではない。だが、表面的に把握した。

「まさ、か、」
「ええ、あなたが書庫に入ったそのときに盗まれました」
「俺、いえ私は盗んでいません」
「もちろん、そんなことは分かっています。犯人はすでに確定済みですよ。それは、―――」
「立花フィオナ中二級祓魔師、だ」

フェレス卿が明かすその前に、霧隠上司が結論を言い放つ。愕然とした。茫然とした。
まさか、そんな、ことが。

昨晩、俺は確かに書庫へと足を運んだ。その書庫は機密情報が入った資料も置いてある書庫だった。そのため、上級祓魔師以上でなければ入室許可が下りない決まりとなっていた。だから、

―――「ねえ、トム。お願いがあるの。私はまだ中二級だから、入れなくって」

同期であり友人である立花が頼んできたので、俺は共に書庫へと入ったのだ。

「上級以上の祓魔師同伴であれば中級以下の祓魔師も書庫への入室を許可する。この規則は改変するとしよう」
「ここ数週間、立花フィオナを連れて書庫に出入りを繰り返していた。その事実は認めますね」
「はい。―――しかし、私は立花が書物を読む間、ずっと彼女の隣で見張っておりました。昨晩もそうでしたが、彼女はそのような行為をしておりませんでした」
「立花フィオナが悪魔に取り憑かれている、と言ったら?」

目を、見張る。

「どういう、」
「立花フィオナは幻術の能力を持つ悪魔に憑依されている。悪魔であっても本部への出入りが可能なのはその能力のためと、彼女の父親のためだと推測できます」
「幻術を使用して任務を遂行し、悪魔だと察知されないように生活を続けた。憑依している悪魔の能力は上級だと言っても過言ではあるまい」
「そうして昨晩、目当ての書物を発見した立花フィオナは幻術を使ってそれを盗み出した。発見が遅れたのはシステムがいじられていたせいだとよ」

文字の羅列が、脳内を埋め尽くす。昨晩の情景が、鮮明に思い出される。ぐちゃぐちゃになった頭は、ひどく、重い。

「さあ、我々が言いたいことは理解できましたか?」

重くなった頭は、自然と下へと下がった。膝を着き、頭を垂れる。

「すべては私に責任があります。どんな罰であろうと甘んじて受けましょう」

その許しは、はたして立花のためか自分のためか、もはやどちらともつかなかった。ただ、自責の念に駆られて頭を垂れるほかなかった。

頭を上げなさいという言葉に、若干の躊躇いを見せつつもゆっくり視線を上げる。三賢者の厳しい視線を、一身に受けた。

「では、貴方に任務を課します。内容は無論、盗まれた書物の奪還。そして、」
「立花フィオナ中二級祓魔師に憑依する悪魔、及び巣窟の殲滅。ただし、その際立花祓魔師の生死は問わない」

がつんと、鈍器で頭を殴られた気がした。生死は、問わない。それはつまり、確実に祓えないのならば、殺してしまえということだ。
友人を、殺す。いくら悪魔に取り憑かれていようと、彼女は、立花は、まぎれもなく俺の友人なのだ。そんな、彼女を、

「何故あなたに頼むか、解っていますね」

俺の心中を読み取ったかのように、フェレス卿は言い放った。確認するように、諭すように。

解って、いる。
ここで首を横に振るような、出来損ないの祓魔師ではない。俺は、役立たずに、ならない。

「必ずや、任務を完遂します」

友人は、消え失せた。彼女はもう、祓魔対象である悪魔だ。

三賢者は同時に首肯し、それから互いの視線をちらりと合わせた。

「しかし、これは貴方ひとりでは決して遂行できないでしょう」
「そこで藤本獅郎聖騎士、霧隠シュラ上一級祓魔師も同行させる」

それで藤本神父と霧隠上司はいらっしゃったのか。ふたりの方に目をやると、一斉に似たような笑みが返ってきた。似た者同士である。
このふたりがいるというのは、たいへん心強いものだった。たかが悪魔一体に。しかし、彼女の能力は未知数であった。いくら親のコネがあろうと、この術のかかった本部内を出入りすることが出来るのならば相当な能力だ。それを危惧しているのだろう。

「巣窟の特定はすでに完了している。これより任務の詳細を説明する」

手元の銃を握りしめ、心の迷いを完全に消し去った。