ハンスは苦悩していた。非常に苦悩していた。 なぜならば、己の身体がいつのまにか女になっていたからである。 そう、つい先ほどまでは男として生活してきたはずなのだ。しかし昨晩床に就いて目を覚ましてみれば、本来己の身体についてないものがついているのである。そして本来己の身体についていたものがついていないのである。詳細は明かすまい。説明せずとも分かるであろう。というか、分かってくれ。 とりあえず、やることはひとつだ。俺―――いや、私は女なのだ。いまは、女になってしまったのだ。 くねくねと指を怪しげに動かし、汗ばむ手をそれへと伸ばしてゆく。 そして、 ―――もにょん。 「お、おおう」 思わずおかしな声を上げてしまった。慌てて口を閉じ、呼吸をして激しい動悸を落ち着かせる。危ない危ない。 我が手のひらは、己の胸――本来なかった脂肪を蓄え、挑発的に揺れるそれ――をしっかり包みこんでいた。否、包みこんではいなかった。己の胸は手からこぼれるほどに巨大化してしまっているのである。これは感嘆に値する。 再び指を動かすと、味わったことのない感覚が脳髄に届く。なんと、すばらしい。 つい昨日まで男だったのだから、俺の脳はいまだ男のままである。ゆえに、今では数少なくなってしまった男性ホルモンという名の本能に忠実に行動したまでだ。 しかし、現在では女性ホルモンの方が数を遥かに凌駕しているがために、そのような行動を取っても反応する部位もなくなってしまった。こりゃ便利。 しばらく胸を揉み、いや、触り続けた挙句、どことなく罪悪感と虚無感に襲われて手を離した。 ハンスは再び苦悩する。なにゆえこのようなことになってしまったのか。なにゆえ己が選ばれたのか。彼が知る由もない。 ドアのそばにある鏡を覗きこむと、自分の顔が鮮明に映し出された。髪形こそ変わっていないが、髪質が以前よりもよくなった気がする。瞳も大きく丸くなり、睫毛もずっと長く伸びている。首は細くなり、肩幅も狭くなった。身体の筋も丸みを帯びた。ほんとうに、女になっている。 こんな状態、どうすればよいのだ。事情を上手く説明など出来やしない。今日は有休でも取るか。明日になれば治っているかもしれない。 いやもしかしたら、もはや現実ではないのかもしれない。夢、か。よし、それならば話は早い。 もう一度眠ってしまえば、翌朝には身体が元通りになっているかもしれない。そうだ。それならばよい。今日は女の胸を触るという貴重な体験が出来た。なんてよい夢だ。神様に感謝しよう。アーメン。 さあ、寝るとするか。そう決心して踵を返した途端、バンと荒々しく自室のドアが開かれた。 「おい!トム!」 入って来たのは予想通りと言うべきか、己の上司である霧隠シュラだった。彼女の胸はたいへん大きくて、美しくて、あれで誘惑されると本能と理性が大バトルを繰り広げる破目となるわけである。いや、よく見てみろ。もしや彼女の胸は今の己の胸よりも小さくはあるまいか。そんなまさか。気のせいだろう。 まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえず、彼女は己の上司である。ノックもなしに容赦なく男の部屋に踏み入るような、大胆な性格の女性である。 「てめえ、今日アタシと任務、だ、……ろ、」 そんな霧隠上司は俺の姿を見て、目を丸くした。勇んでいた声も、徐々に小さくなってゆく。 俺はどうしようもなくなって、額に手を当てた。さて、どうしよう。 「……お、おまえ、誰だ」 「……トム・ハンスです」 「冗談やめろよ。お前、トムの女か。なんだよ、トムは女を部屋に上げられるような積極的な男だったか?あいつまだ童貞だろ。お前で童貞卒業したのか。脱チェリーしたのか」 「質問が多いです霧隠上司。あと、人の個人情報を易々と他人に教えないでください。それも心を抉りそうなやつを」 霧隠上司の言葉に思わず目から心の汗を零しそうになる。霧隠上司は何一つとして間違ったことを言ってはいない。だからこそ、だ。 「トムは何処に行ったんだ?」 「ですから、俺がトム・ハンスです」 「嘘を吐くな。―――とは言ったが、確かにお前ちょっとトムに似てんな…」 「トムですよ。今日は霧隠上司と某悪魔の巣窟破壊の任務が入っていて、集合は午前10時にヴァチカン本部正門前。今回の任務は我々二人のみに内密に出された任務のため、任務の詳細はすべて我々二人とヴァチカン上層部しか知りえません。それゆえ、」 「このことを知っているお前は…、トム・ハンスだと」 「ご理解いただけましたか」 「いや、ああ、理解は、しているんだが……、ちょっと待ってくれ」 霧隠上司は混乱した表情で手のひらを見せた。その行動に従って俺は閉口する。霧隠上司が混乱しているので、その代わりに俺が落ち着いてきた。そういえば、これは夢だったな。 「霧隠上司、これは夢ですよ。ですので、もう一回眠れば俺は元通り男に戻っているはずです」 安心してくださいと笑みを浮かべてみせると、いきなりビンタをしてきた。右頬に激痛が走る。 「……突然何をするんですか、霧隠上司」 「痛いか」 「痛いです」 「夢で痛みは感じるか」 「……感じる夢もあるはずです」 「じゃあ、目を覚ますまでアタシが殴ってやるよ」 「遠慮させていただきます」 即座に辞退を申し出た。霧隠上司のビンタは非常に痛いのだ。今の一発だけでも右頬はぷっくりと晴れてしまっている。をとめの顔がひどい状態になってしまった。―――ああ、やっぱりこれは夢じゃないのか。薄々気付いてはいたのだが、いわゆる現実逃避というやつである。 「ほんとうに、トムなんだな…」 「はい。俺も信じられませんが、確かに女の身体になってしまっているようです」 霧隠上司はようやく理解してくれたようだ。そして、俺もようやく現状を受け止めた。己の身体と霧隠上司の身体を見比べ、やはり女になったのだと自覚する。 まじまじと俺の身体を見つめていた霧隠上司は、おもむろに俺の両方の胸を掴んできた。そのままもにょもにょと揉み始める。 「霧隠上司、何をするんですか」 「ほんものだ。しかもアタシよりでかい」 「ありがとうございます、おかげさまで」 「ありえない!」 「これは立派な事実です。あと一応神経が通っているので、非常にむずむずします。やめてください」 「まさか下も……」 「それだけはやめてください。俺にも羞恥心というものがあります。あと、俺も確認していないのでやめてください」 「どうせAVやらエロ本やらで見たことくらいあんだろ。そういうやつだよ。ちょっと確認させろ」 「そういう問題でもありません。やめてくださ、ちょ、」 びたーん。 「いでっ」 「おら、倒れちまったじゃねえかよ。しっかり支えろ」 霧隠上司の魔の手から逃れようとしたら、バランスを崩して倒れこんでしまった。霧隠上司は怪しげな笑みを浮かべて俺の上に馬乗りをする。俺が女でなければ、確実に下半身に異変を来たしていただろう。しかし俺は女であり、現在は危機的な状況のためそんなことを気にしている暇はない。 「やめてください霧隠上司!ズボンの紐を解かないでください!」 「なんだよ、ボクサーパンツか」 「ほんとうにやめ、」 「……シュラ、お前何やってんだ」 「おやァ、貴女にそういう趣味があったとは」 そんな中、突如飛び込んできたのは聞き覚えのある男の声ふたつ。 「あ?」「……藤本神父に、フェレス卿」 なんとか首を起こして開いたドアの方を確認すると、そこには霧隠上司同様に己の上司である藤本獅郎神父とメフィスト・フェレス日本支部支部長が驚いた顔をして突っ立っていた。無理もないだろう。今の状況は、霧隠上司が女を押し倒してズボンを下ろそうとしているようにしか見えないのだから。 「なんだそいつ、トムにそっくりな女だな」 「し、獅郎!?」 藤本神父を認識した霧隠上司は、慌てて俺の上から下りた。もう少しあのままでも良かったかもしれない。非常にすばらしい眺めだったのだ。下半身があらわになるという危機を携えながらも、しっかり彼女の豊かな胸をロックオンしていた。俺は抜かりないのだ。 しかしそんなことよりも、また説明するのに面倒な人間が増えたなと頭のすみで考えた。 |