藤本神父は何も言わなかった。返答が怖くて、反応が恐ろしくて、私は顔を上げられないでいた。そうしてどのくらいの時間が経過したのだろう。その表情を見たくなかった。
拒絶される、当然のことだ。私はかつてトム・ハンスで、出来の悪い部下で、男だった。いくら女になったからといって、事を急ぎ過ぎたのではないか。あのとき私が何も言わなくても、藤本神父はきっと待ってくださっただろう。溢れ出たこの言葉を今更に後悔していた。鎮められなかった自分の心を責め立てていた。私はいつまでこのひとを失望させればいいんだ。

「藤本神父、今の言葉は忘れてください」

申し訳ありませんでした、と謝辞を述べようとした。しかしその台詞は私の喉の奥で霧散した。藤本神父の赤い瞳は柔らかく閉じられ、白に近い銀髪が風に揺られている。眼鏡のチェーンが私の耳元で澄んだ音を立て、太陽に反射して目を眩ませた。頭を押さえつける大きな掌は、私を逃すまいとしている。呼吸が、止まった。



藤本神父に、キスをされている。



これはどうしたことだろうか。藤本神父がいよいよもってご乱心召されたか。目前のこの麗しき据え膳を食わねば損損と考えなさったか。しかし、落ち着きなされ。私はこれがファースト・キッスなのである。落ち着くべきなのは私の方であった。母なる大地に産み落とされ早幾年、異性間交遊のない寂しい思春期に腹を立て母に反抗期の到来を告知したところ唐突に勘当されかけたこのハンスもとうとう人生最初の接吻を成就させた。おめでとうエリィ、ありがとうトム。そのお相手は聞いて驚け見て慄け、かの恩人藤本神父である。藤本神父が、私に、キスをしたので、ある。



何ということか!



正気に戻ると同時に呼吸器の異常を認識した。苦しい、口という最大の呼吸器官を塞がれてから何分が経過したのだろうか。世のアベック一同は濃厚なベーゼをする際如何様に酸素を補給するのだろう。エラでも所有しているのか。巷に溢るる男女諸兄はエラ呼吸も可能であったか!人間を棄てねば三次元に恋人は出来ぬ、と助言したクラスメートのシューバッハくんは真理を提唱していた。彼は聡明ゆえに画面を隔てた相手にしか欲情し兼ねる性癖だったが、そんな彼でも真理を見極められたのだ。誇り給えシューバッハくん。そして君の頭脳に頼ってお尋ねしたい。この現状の打開策は何処か!


ぬるりと口内を侵し始めた舌に動揺は一層加速する。わずかに離れた唇の端から艶やかな息が漏れた。今の声は私の声帯から為されたもので間違いないか。こんな声猥褻動画でしか拝聴したことがない。歯の裏をなぞり伝う舌先に、くすぐったさを超えた身体の奥が痺れる快感を味わう。ああ、何だこれは。酸素不足のためか悦のためか、頭がぼんやりと霞を帯び始めた。私は今、あたたかくやさしい温度で包まれている。




かさついた唇が名残惜しそうに離れ、ようやく肺呼吸が回復した。思わず溢れた涙を拭いながら、ゆっくりと息を整える。靄の晴れていく脳内で思考も正常になる。

「ふ、ふじもと、神父、どうして、」

どうして、私にキ、キス、をされたのですか。

藤本神父はわしゃわしゃと自身の頭を掻きむしり、「あーくそ!」と叫んだ。そして私の頬をむぎゅっと掴んでその両眼を覗き込んだ。

「お前がそんな顔するからに決まってンだろうが!」

そんな顔、とは、この美の極みを超越したアルテミス・フェイスのことだろうか。遠退いた愛しい唇を再度焦がれるように人差し指をピンク・リップの側に添え、すっかり見上げることも慣れてしまった顎のラインを見つめる。つまり、つまるところは、藤本神父はあくまで私のこの麗しさに誘惑されたばかりに濃厚なベーゼを交わしてしまっただけであり、それは男性所以の股間部由来の衝動に過ぎず、エリィ・ハンスというクレオパトラでなくとも他の女子であれば発生するミステイクであったのだ。それは、私の性急すぎた告白に対する返事と同義であった。ノー、イエスマンの日本人は愛の告白においては躊躇なくノーと言えた。イエス・ウィー・ケン、バット、ノー・アイ・ケント。私はいま、フラれた。人生で初めて直接面と向かってフラれた。恋心を寄せたことはあれど愛の言葉を囁いたことはない。ゆえに失恋もない。遠隔的な可能性の消失はあれど、フラれた経験はなかった。だが、今回初めてお断りを呈された。なるほど、これは、胸が苦しくなるわけだ。

「ごめん、なさい。藤本神父を困らせてしまうなど、補佐官失格ですね。謝罪します。どちらにせよ解任の時分でしたから丁度良かった。ああ、ですが、どうか減俸だけは勘弁してください。先日霧隠上司にお借りしたお金を返納せねばなりませんから、何卒ご容赦、くだ、さ、ふ、う……っ、うう、」

口の端からぽろぽろとこぼれる戯言が私の涙までも引き連れてきた。ようやく静止し始めていた涙の行軍が再び量を増して滝のごとく頬を滑り落ちてゆく。胸の奥が張り裂けそうだった。解剖しても見当たらない心臓の中の深いところにある何かが悲鳴を上げている。その息苦しさに喉から嗚咽が漏れた。辛苦に喚く姿がみっともなくて、愛しい人にこれ以上醜態を晒すことは遠慮したかった。終止符は私が早く打たなくては。謝罪は聞き飽きたと仰っていたから「失礼します」と規範よろしく踵を返す。その手を、引かれた。



収まるは彼の胸元。漂う紫煙の香りはコートに染み付いたものだ。後ろから抱きすくめられ、身動きが取れない。振りほどこうと尽力すればいいのだけれど、この心地よさを手放したくなかった。藤本神父の行動を分析するよりも先にそんな感情を抱いてしまうなど、身の程知らずが過ぎる。だから、欲張りな指先が藤本神父の手のひらに触れようとするのは流石に引き留めた。

「お前の早とちりは治りそうもないな。確かにお前からの告白は俺を困らせた。それは好きでもない女から告白されたからじゃない。もう少し時間が要ると思っていたところをお前が感情に任せて言ってしまったからだ。自覚を持って整理をつけるのにクソ真面目なお前は年単位で時間が必要だと踏んでいたんだが、なんだ、感情的にもなれるんじゃねェか。―――なあ、エリィ、俺はまだお前に返事をしていねェんだよ」


そして、私は、息を呑む。


「愛している、エリィ・ハンス」


そのこえを、私はずっと焦がれていたんだ。


「わたしも、私もです、藤本神父。愛しています、貴方が、貴方のことが、もういつからなのか判らない、気が付いたら貴方に惹かれていた。貴方しか見えなくなっていた。貴方が呼ぶこの名が愛しくて、手放せなくなった。ああ、嘘じゃ、嘘じゃないなら、もう一度、私を、」

振り返り、藤本神父の燃ゆる両眼を見つめて、その腕に縋った。もう一度、何度だって、私は貴方に名を呼んでほしい。名を呼んで、愛の言葉を囁いてほしい。これまで嫉妬や羨望に眩んでいた目も、今は澄み切ったようにはっきりと見える。浅はかに、軽んじて見えていた「愛」という言葉は、私がこのひとから与えられるために存在したんだ。

「これから何回だって言ってやるよ。エリィ、おまえを愛している。だから、俺のために胸を張って生きろ」



ありがとう、トム・ハンス。このときまで、私と生きてくれて。



「この美乳で藤本神父を誘惑するためにですか?」
「言うじゃねぇか、受けて立ってやる」



私は、エリィ・ハンスは、このひとと生きていきます。




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