エリィという名前に聴き覚えのなどなかった。耳覚えなどなかった。口をついて出たその名は、俺の全く知らないものだった。生き別れた双子の妹の名でもなく、かつて愛し合った恋人の名でもなく、昨晩片付けた洋モノ雑誌の表紙を飾った尻のきれいな女性の名でもない。冗談は多分に二つほど含まれている、見抜いてくれたまへ。つまるところ、エリィという名前への思い出も、思い入れも、ありはしなかった。あるはずもなかった。俺にとって固有名詞ではあるけれども、俺自身を表す固有名詞とは思えないのだ。そうはなり得ないのだ。


しかし、私はちがう。


私はエリィだ。俺はトムだけれど、私はエリィだ。トムではない。ハンスであることに変わりはないけれども、個体そのものが変化した。トムではなくエリィとなった。その突然変異に果たして戻ることのできる可能性はいかほどに含まれているのだろうか。
しかし、それを望んでいたことでさえも、今となっては昔のことだ。今はもはや、むしろ、戻ってくれるな、とさえ、思ってしまっているのだから。




好きだ。
藤本神父が、好きだ。




私を救ってくれたこの人が愛しい。この人が神父として俺の前に現れたときに芽生えた憧憬は、あのとき、俺の友人を殺してくれたとき、俺の友人を解放してくれたときに、紛れも無い恋慕のそれへと、変わってしまった。


だから、私は、私として生きていく。エリィとして生きていく。
かの者、トムは、私ではなくなった。彼はもうここにはいない。私を否定し苦悩し続ける彼は、もういなくなってしまった。一足先にたすきを来世へと渡してしまった。


ありがとう、トム・ハンス。私を残してくれて、私をつくってくれて、私を藤本神父のもとへ導いてくれて、ほんとうにありがとう。




これで、最後にしよう。この苦悩も、最後にしよう。




私は、藤本神父の求める私になる。




藤本神父がトムを求めるのであれば、私は素直に身を引く。いなくなってしまった彼を引き戻す。元々私は偽りだったのだから、感謝の意を込めて自分はトムへとなろう。


けれど、藤本神父が、私をエリィと呼んでくれるのであれば、私は、







♂♀





藤本神父は、私の眼を真っ直ぐ見つめた。いつものように、心の奥まで読み取るように、真っ直ぐ見つめた。






「……エリィ」




そうしてその愛しい唇から告げられた名前は、




「…………はい」



トム、トム・ハンスでは、なかった。



「エリィ、おまえは、エリィだ。俺のよく知る、かしこくて真面目でばかで、」

それは、どっちなんだ。

「マニアックかと思えば陳腐な趣味してやがって、」

余計なお世話だ。陳腐ではない、メジャーなだけだ。

「任務に対しては常に全力で、模範であろうと無茶をして、冷静でいようと無理をして、どこの学級委員長だってんだ」

そんなこと、そんなことは、ない、のに、

「そんで結局はこっそりひとりで泣いてる泣き虫なのにそれでも強がる、愚かでどうしようもない、」

何でそんなことまで、知っているんだ。何でそんなことまで、見ていてくれているんだ。

「藤本神父、」
「おまえは!」

突然の怒声に怯んだ拍子に頬を両手で挟み込まれた。その手のひらは大きくて熱くて、ひどく安心した。



「おまえはハンスを名に負う人間だ。そうだろう、エリィ」



すとん、と、そのことばは随分呆気なく胸の内に沈んでいった。自然に、悠然とあたたかみに満ちていく心に呆然とした。


私は、そのことばを誰かに言ってほしかったのか。



「ッ、はい……!」



それを言ってくれたのは藤本神父で、ああ、藤本神父は、私を、俺を、よく知ってくださっていたんだ。理解していたんだ。私をよくわかったうえで、俺をよくわかったうえで、ハンスという存在を認めてくれたうえで、私をエリィと呼んでくださった。




私が求めている名前を、呼んでくれた。




藤本神父、


「私は、」



どうしようもなく、



「エリィ・ハンスは、」



どうしても、



「あなたのことが、好きです」