霧隠上司の声に、俺は回想から現実へと呼び戻された。回想していた時間は、しめて三十秒ほどである。立花はいまだ鞄を撫でていたために、この回想によって任務に支障が出ることはなかった。立花はよほどその鞄に思い入れがあるのだろう。おそらく違うが。

ようやく立花は鞄のチャックを引いた。そうして現れたのは、古臭くて分厚い、一冊の書物。

頭をのぞかせたその書物を、立花が素手で触ることはない。早速彼女は黒い手袋に手を入れた。もちろん書物に術がかけられているためだ。少し遠慮がちに本を触ろうとする立花。しかし、人間の作った革の手袋で術式が防げるはずなどあるまい。指先が本の表面に触れた刹那、バチリと音がして立花の手が弾かれた。その衝撃で彼女は少し後ずさる。





ダァン、と、銃声が響き渡った。その弾丸は、机と立花の間を狙って撃たれていた。

「よォ、あー、立花フィオナ、だったな。調子はどうだ?」

岩陰から挑発するような声が聞こえてくる。その声の主を見た立花の目が、驚愕で丸くなった。突然の聖騎士の登場に、彼女が動揺しているのは火を見るよりも明らかだ。

「な、なんで聖騎士がここに、あんたは任務でイタリアに向かったんじゃなかったの!」
「ところがどっこい、俺はここにいるんだよなァ」
「くッ、上に感づかれていたのね…」

にやにやと笑う聖騎士――もとい藤本神父。それを見て悔しげに歯ぎしりをする立花。俺と霧隠上司はそっと視線を交わした。

「それでも、あんたに、祓魔師なんかに、計画の邪魔はさせないわ!」

キッと藤本神父を見据え、立花はその手を上げた。それはこの洞窟に蠢いている大量の悪魔――蛇が敵に一斉攻撃をする合図だった。
途端に蛇は唸り声を上げて藤本神父へと向かってゆく。足止めをしている間に、立花自身は本を守ろうとするつもりだ。


すべて、こちらの思惑通りだ。


同時に岩山から飛び降り、俺は立花のもとへ霧隠上司は蛇の大群のもとへと駆け出した。
立花の目の前に立って、銃口を向ける。彼女の見開かれた眼は、まるで蛇のように、鋭かった。

「あんたは、さっきの、」
「どうも、さっきぶりです」

立花に次の言葉を吐かせる余裕は与えない。俺は迷うことなく引き金を引いた。

がん、と聞きなれた音が耳の奥で轟いた。








「どうしてェ、あんたたちがいっしょにいるのかしらあ」

いわゆるマトリックスである。立花は眼光を尖らせただけの変化しか見られない。避けられたか。俺は舌打ちをした。

「簡単な話です。あなたのことはすでに上に知られていた。だから騎士團全体を騙すことにしたようです」
「表向きは別の任務だと思わせておいて、実際は三人とも私を殺すための任務だったってことねえ。
 ―――でもそれじゃあおかしいわ」

間違いを指摘する教師のように、俺の顔を指差した。

「霧隠シュラと任務に行くのはトム・ハンスだったはずよ。いとこのあんたじゃないわ」
「トムは下痢になったため、代理としてやってきました」



「あいつの“所為”でこんなことになっているのにい?」



喉の奥を冷たい空気が通過する。ヒュッ、と情けなく息を洩らす。

「あんたも知っているんでしょう?仮に臨時の代理だったとしても、それなりの詳細は知らされたはずだわ」



返答が、できない。



「あんたのいとこの“おかげ”で私はその本を盗むことが出来たの。つまりこの任務はあんたのいとこ――トム・ハンスの“所為”で引き起こされたものなのよ!」



ぐるぐると余計な考えが頭をめぐる。理性が集中しろと命令しても、本能がそれを拒絶する。

俺の所為で。立花のその言葉が脳内を支配した。




ゴンッ。

「任務に集中しろ!お前は“トム”じゃねえだろ!」



藤本神父に、後頭部を銃で殴られた。手加減してくださっているとはいえ、確実にたんこぶのひとつやふたつ(ふたつも出来たら困るが)は出来ただろう。



かなり痛いが、今の衝撃のおかげで頭を真っ白にすることが出来た。俺の任務は、俺の過失を取り戻すことだ。失敗は実践で取り戻す。

「あんたが邪魔をしなければ、エリィを利用できると思ったのに。ふふ、あんたとトムはよく似ているわ」
「余計なこと言ってっと、死ぬぞ?」
「あら、あんたにそれが出来るのかしら」

立花は余裕の表情で藤本神父の攻撃を避けていた。あのマシンガンの攻撃を、いとも容易く避けている。



―――否、だいじょうぶだ。心配は要らない。藤本神父は聖騎士なのだ。俺があのひとを信じないと。

だから、俺は自分の役目を果たすだけでいい。



コートのポケットから折りたたまれた紙を引っ張り出して、石机の上に広げた。紙には梵字やら何やらで構成された魔法円が描かれている。放置されていた本を拾い上げ、それの中央に載せた。

「術式を、開始します」

十字に印を切り、脳内に流れる文字の羅列を無機質に呟き始める。この呪術は、低級はもちろんのこと上級でさえも中々解くことができない結界術だ。この結界術を使おうと思ったのは、術をかけた人物が死んでもしばらくは結界を保つことが可能なゆえだ。

何があっても、書物は死守しなければならない。

約八分の一を詠唱したところで、結界がアバウトに構築された。このペースであれば、おそらく三分程度で終了するだろう。
視線を上げると、霧隠上司が大量の蛇を相手に苦戦していた。数が多すぎるのだ。俺も早くこの戦線に参加しなければならない。





俺が本に結界を張る。立花が従える多量の悪魔は霧隠上司が相手をする。藤本神父は立花を倒す。

効率の良さは知らないが、とりあえずはこれがこの任務の作戦だった。これでは霧隠上司の負担があまりに大きい。だから、俺が急ぐ必要があった。

周りに意識を取られていてはスピードが落ちる。俺はまぶたを下ろして詠唱に集中することにした。



無心だ。無心で詠唱しろ。余計なことは考えるな。俺の所為だということはもう知っていたことだ。当たり前だろう。何故警戒しなかった。立花が友人だからか。祓魔師だからか。それとも、俺は立花に惚れていたのか。もしかしたらそうだったのかもしれない。だから立花の生死は問わないと言われたときにショックを受けたのか。でも、あいつはもういない。あれは立花の皮を被った悪魔だ。そうだ、悪魔だ。俺は祓魔師だ。そして、トム・ハンスでもない。あいつの友人ではない。俺は、私は、エリィ・ハンスだ。








―――私は、俺は、いったい“いつまで”エリィ・ハンスなんだ?






「何してんだエリィ!もう詠唱は終わってんだろ!」

また霧隠上司によって意識を呼び戻された。霧隠上司は俺を現実に引き戻す天才なのかもしれない。現実逃避しかけたら霧隠上司に連れ戻してもらうとしよう。頼れる上司を持ったというのは誇るべきところだ。

完成した結界を確認してから、俺は再び銃を握り締める。霧隠上司の付近で蠢いていた蛇へと銃弾を浴びせる。
よし、だいじょうぶだ。少し引き金が重い気がするが、だいじょうぶだ。

「そうねえ、蛇の数も減ってきたようね。そろそろピンチなのかもしれないわ」

蛇を倒しながらちらりと立花のいる方を見た。息が荒く、銃弾も少し受けたようだ。顔色が蒼く見える。

「その本に当たるかもしれないから嫌だったけど、そんなことも言っていられないわね」

ずるり、ずるり。立花の下半身が溶けるように造形を変えてゆく。危険を察知したのか、藤本神父の攻撃が荒くなる。しかし、その攻撃はすべて蛇へと当たった。立花を、庇っているのか。

「ちッ、身を挺して庇うなんて泣かせるじゃねえか」
「おい、どうなってやがる!」
「ようやく奴さんが本性を現すんだとよ!」

藤本神父が言ったとおりだった。立花は、下半身を完全に蛇のそれにしてしまった。

長く大きな体躯。そこから伸びる四肢。上半身は確かに人間のものだが、鱗が浮かび上がり瞳は完全に蛇のごとく瞳孔が鋭くなった。
しかし、蛇とは異にする部分がひとつ。それは、額から伸びた銀色の角であった。蛇はあれを持ち合わせていない。

「蛟(みずち)、だ」

ぽつりと藤本神父がこぼした。厄介な相手だ、と舌打ちをしつつ銃弾をこめ直している。その言葉を聞いて頭の中の辞書を引いてみた。



蛟、またの名を蛟竜という。その躯には四脚と角を持ち、毒気を吐いて人を害するとされる悪魔だ。

まずい、この洞窟内で毒を吐かれてしまえば確実にゲームオーバーだ。それに厄介なのはそれだけではない。蛟は杜若を食すと蜃気楼をつくることが出来る(その蜃気楼で我々を惑わせていたということか)。洞窟内に杜若は見られないが、おそらく何らかの手段で手に入れるだろう。

毒に蜃気楼。それにあの巨躯だ。三メートル近くあるに違いない。

「めんどくせェな…」
「おい、獅郎、ひとりでだいじょうぶなのか!」
「おっぱいがでかい女ふたりに任せられるか」
「胸は関係ないかと思われます、藤本神父」
「いいからお前らはさっさと蛇を処理しちまってくれ。話はそれからだ」

追い払うように手を振って、自分は得物を構える。冗談が言えるなんて、よほど余裕な証拠だ。どこでその図太さを手に入れたのだろうか。

<あら、ずいぶんと簡単に言ってくれるじゃない。私はそう簡単に倒せないわよ>
「こちとら聖騎士のプライドが少なからずあるんでな」
<私もそれなりに胸が大きいと思うのだけど、どうかしら>
「シュラよりもちっせェじゃねえか」
<…今、女性のプライドが崩されたわ>
「蛟にもオスやメスがあんのか!そりゃすげーな!」

どっちもどっちのようだ。激しい爆音と共に藤本神父と立花が煙に包まれる。その煙は濃度が濃く、まったく先が見えない。影でさえも、だ。




俺があまりに心配そうな顔をしていたのか、霧隠上司が一喝した。

「蛟は毒を吐く前に角の色を変化させんだよ。その前に叩いて毒を作るのを阻止しちまえば、毒は吐けやしねえ。警戒するべきなのは蜃気楼ぐらいだ」
「しかし、あの大きさの悪魔を、」
「獅郎は仮にも聖騎士だぞ。あのレベルの悪魔なんか星の数は相手にしたことあるに決まってんだろ」
「星の数もヘビー級がいるなんて、世界は広いですね」
「性別が変わる人間がいるなんて、世界は広いよな」
「……、そうですね」

その冗談に苦笑を漏らすと、霧隠上司も笑った。少し心が落ち着いた。やはり、霧隠上司は信頼するに値する上司だ。胸の大きさ並みに懐も大きい。この人に失望されたら、俺はもうやっていけないだろう。

「アタシたちがまずやるべきなのは、目の前の敵を殲滅することだ」
「了解しました」

自分のスタミナの異常な減りを感じながらも、俺はただひたすら銃を構えた。手が、汗でよく滑った。