un way to colosseo


好機、幸運、グッドタイミング、ラッキーチャンス、そういうすべての時機を見事に外した私は、絶望に頭を抱えた。致し方なく逃走を図るも、最寄りのドアに鍵穴はなかった。退路断たれたり。諦めて目の前の男の子に向き合う。
機嫌の悪すぎる、奥村雪男くんに、私は諸手を上げて降伏をするつもりだ。なんでこんな目つき悪いのこのひと。無言で私を見据え、そして深々と息を吐かれた。態度が最高に最悪だ。

「よりにもよってこんなときに……申し訳ありませんが帰っていただけますか?今はあなたに構っている暇はありません」
「ゆ、雪男くんに構われたくて来たわけではないよ……仕事だから、です」

そういう意味ではないことは分かっていたけれど、私の意地が雪男くんの眉間のシワを増やす返事をさせた。宣戦布告を受けた以上真っ向勝負は避けられない。そして、そういう腹の探り合いは塾ではなくこの男子寮……私の仕事場にて行われた。公私混同は双方にとって不本意だからだ。とはいえ、唯一の癒しであり元凶である燐くんがこの場にいないことは、雪男くんの独壇場であることを意味する。そんなときに、虫の居所が悪いという過負荷まで付属した状態で、私はお掃除おばさんを努めに来てしまったのだ。帰りたいけれど、帰りたくない。雪男くんの言いなりになんてなってやるもんか、という救いがたい意地っ張りが私には存在した。

「どうぞお気になさらず。私は勝手に掃除して勝手に帰りますから。雪男くんたちの部屋には近付かないから問題ない、で、しょ……な、何ですか」

怯えたところを見せずに頑張っていたら、突然雪男くんが接近してきた。もちろん雪男くんのほうが身長は高いために、寄れば寄るほど威圧感は増す。私を見下ろす目は、据わっていた。

「そもそも、合宿をここでやること自体反対だったんです。僕らが生活している場所ですから。しかし隔離してもらっている以上わがままは言うまいと了承せざるを得ませんでした。フェレス卿に『こちらで清掃員は雇いますから』と言われて誰が来るかと思えば……あなたが来るなんて誰が予想したと思います?確かに小間使いにはちょうどよい人材でしょう。ですが、フェレス卿の手下の前にあなたは女性です。もう少し警戒をすべきなのに、わざわざあなたを寄越したということは……深読みしてしまう気持ちくらい理解できますよね、杉さん」
「理解できるから離れてください……!」

そんなこと思っていたのか、と雪男くんの意見を知ることができたことは僥倖だ。けれど、何だこの仕打ち。接近戦は得意とするところではない、というかこれだけ近いと怖くてろくな反論もできない。回避の策を練ろうと視線をぐるぐると回すけれど、映るのは雪男くんの祓魔師コートの胸元ばかりで埒があかない。所持品も掃除用具だけで、これを鈍器として使用することも可能だが、それは最終手段にとっておこう。暴力はよくない、勝てる気もしない。

「雪男くん、は、離れて、ほしいな、ほら、私も女子なので、男の子とこんなに近いと、緊張するし、恥ずかしいし、みたいな」
「僕のことを男として意識しているんですか?」
「そっそんな直球で……いや、そういうことだけれど……」

ふふん、と不敵な笑みを浮かべられた。えっ、そういう攻防の仕方をしてくるのか、雪男くんは色仕掛けとかしないタイプと思っていたのに。色仕掛けは女がするほうか。なんでもいいけど勘弁してほしい、心臓が飛んだり跳ねたりして騒がしい。

「いいですよ、意識して」

その意味不明な台詞に反応する前に、手首を掴まれた。拍子にバケツを落とし、ガシャンと大きな音が響く。ええい、最終手段と振りかぶったハタキも軽々とかわされ、そっちの手首も捕獲された。嘘でしょ。

「女性が男性しかいないところに単身で来ると、どういう事態を招くのか教えてあげましょうか」

つ、と雪男くんの指先が手首の筋をなぞる。その行動に、息を呑んだ。いくら馬鹿でもこの後何が待ち受けているのかくらい予想がつく。

「ゆっ雪男くんみたいなかっこいいひとがこんなちんくしゃに構ってたら体裁が傷ついちゃうよ!」
「かっこいいと思っていたんですか」
「そこじゃないかな!」
「心配されなくても僕の体裁はあなたよりいいですから」

こんなときまでとんだ飛び火だ。頑張って絞り出した台詞も呆気なく流され、雪男くんの顔が徐々に近づいてくる。これは、もう、オブリビオンを、召喚するしか、……ない!

「オ、」
「待たせたな雪男!解呪の薬もらってきたぜ!」

ばーん!と、開け放たれたドアから燐くんが小瓶を持って現れる。な、なんだって、解呪?と、とりあえず、

「ナイスタイミングだよ燐くん……」

集中の削がれた雪男くんのすねを、思いっきり蹴り飛ばした。



「なんか、任務でい、いん、ま?とかいう悪魔をぶっ倒したはいいんだけど、祓い際に呪われちまったみたいでよ。雪男に頼まれてその薬をもらいに行ってたんだ。いやあ、危なかったな、あとちょっとで食われるところだったんだろ?」

寝台に横たわる雪男くんの顔色を窺いながら燐くんはあっけらかんと笑う。きっと何も分かっちゃいないんだろう。まあ、分からないほうがいいこともある。私は未だに音高く鳴っている心臓を深呼吸で鎮めていた。ほんとうに、あとちょっとでどうなっていたのか、想像したくもない。今日はもう帰ろう。とても掃除をする気分じゃないや……。ゆっくりと身体を起こした雪男くんと顔を合わせないようにその場から逃げ出した。

「……兄さん、もっと早くに来てほしかった」
「ギリギリセーフだったろ?」
「ギリギリアウトだよ」





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