逆さま乙女 二



私の心の内に合わせた身体状況であれば、鼓動は速いわ胸騒ぎはするわ冷や汗は掻くわ…と、とても忙しいはずなのだ。
しかし、現在一向にその様子は見られない。平然と腰を下ろしている。生きている心地がしない。いや、死んでいるのか。そっか。


「…納得はしました。理解もしました。ただ、どうしてそれを私に言ったんですか」
「…つまり、どういうことでしょうか」
「私に言わなければ、私は必然的に死んだという事実を受け止めたはずです。死因は単純に病死ということで。しかし、そちらのやむをえない状況を私に教えた。これには何か意味があるのではないか、と思いまして」


つらつらと思っていることを並べた。言ってしまってから男の表情を窺うと、何故だか満面の笑みを浮かべていた。


「やはり、賢い御方で安心しました」
「はい?」
「いえ、そのとおりです。私はあえてあなたに事実を伝えました。それも、すべてこちらに理由があってのことです」
「……理由って、なんですか」


パッと、急に、男はにこやかに笑い出した。その爽やかさは青い草原もあっぱれと言うほどだろう。


「あなたの予定ではこのままいわゆる極楽浄土と呼ばれるところに行っていただくのですが、申し訳ありませんがそれも延期になってしまいました。たいへんご不便をおかけします」


どうにも台詞と合っていない気がする。どうして謝罪しているのに、こんなに笑顔なのだろうか。意味が解らないが、その笑顔に押し黙ってしまった。口を開くと男の細まった目が少し開くのだ。喋るなという意味に違いない。
全く質問の回答になっていないというのに。理由の説明とは、思えない。どういうことだ。


「あなたは極楽浄土ではなく、別の世界に行っていただきます。その世界は『忍たま乱太郎』と呼ばれるアニメの舞台となっている世界です」
「……にんたま、らんたろう」


それは、何処かで訊いたことがあるような。そう思った途端に、懐かしい歌が脳裏を掠めた。ああ、そういえば昔テレビで見たような記憶がある。確か、忍者の学校のアニメだった気がする。ぼんやりとしか思い出せないが。


「あの、どうしてそんな世界に」
「こちらの不備によって下界を離れ、極楽浄土への引越しを延期になったお詫びです」
「ほんとうにお詫びなのか…。どうして延期になったんですか」
「こちらの不備です」
「だから、その不備の内容を、」
「さて、では、そろそろ参りましょうか」
「………言う気はない、と」
「申し訳ありません。いつかは話さねばなりませんが、いまはそのときではないのです。話すには、私もあなたも未熟ですから」


今度こそ男は笑みを崩した。その表情を見てしまうと、反論することも出来なくなる。出て来そうになる台詞をぐっと抑えた。
つまり、私は極楽浄土には“まだ”行けず、『忍たま乱太郎』の世界に行くことになる、と。これはあれじゃあなかろうか、“トリップ”とかいう、「そのとおりです」……心の中も丸見えなんですか。


「そうですね。神様ですから」
「はい?」
「どうかしましたか?」
「いま、なんて、」
「神様ですから、と言いましたが、何か問題でもありますか?」
「か、神様なんですね…」
「はい。一般的にそう呼ばれています」


そう言われて真っ先に出て来たのは、長い髪と荊の冠と白い服。そのイメージが見えたみたいに、男は眉を下げて笑った。
「ああ、イエスさまは会社でいうところの社長のような方です。“神様”というのは我々の総称で、あなた方の言う“人間”のニュアンスだと捉えてください」
「なるほど。八百万の神ということですね」
「そういうことです」


パチン。男が指を鳴らした。直後、男の隣に音もなくふすまが現れた。


「これを開けると、しばらくは天界には帰って来られません。不備が直り次第、あなたに連絡いたします」
「分かりました」


二つ返事で頷いてすぐにそのふすまを開けようとすると、男は「そうでした」と何かを思い出したように呟いた。


「何か」
「もうひとつ、お伝えしておくことがありました。その世界には、もうひとりイレギュラーの方がいらっしゃるんです」


mokuji