きずだらけのあのこ

ぼんやりと散歩をしながら、街の中を見て回る。商店街を通ったり、公園を通ったり。何処に行っても大阪の方言である関西弁が聴こえてくる。
こんなに聴いていたら、うつってしまいそうだなあ。「おおきに」とか、言ってみたいな。
生まれも育ちも東京だから、少しだけ方言にあこがれていた。変な羨望だけど。


ふと、軽快な音が耳に入った。何かボールを打つ音。


興味が湧いて音の聞こえる方へ向かえば、そこにはテニスコートが敷かれていた。手前のコートで試合をしている。
そのひとたちはとても楽しそうに笑いながら、汗を煌かせていた。これが、青春だ。


しかし、あまりテニスにいい思い出がないわたしはすぐに踵を返した。これ以上いたら、フラッシュバックしてしまう。


早く、帰らないと。早く離れないと。


―――『有子は俺達が守るからな』『ひとりで抱え込んでんじゃねェぞ』『俺らに気軽に言うてな』『ファンクラブなんか、気にしないで』


「っ、あ、」


どうしよう。どうしようどうしよう。いやだ、こわい。きもちわるい。いや、おもいだしたくないのに。あのひとたちが、だめ。こわい。いやだ。こわい。


震えが止まらなくなり、わたしは思わずうずくまった。冷や汗が止まらない。視界が歪んできた。
駄目だ。こんなところで気を失ったら、おばあちゃんに心配されちゃう。


昨日傷をつけた手首に爪を立てた。痛い。これはわたしが味わうべき痛みだ。みんなはもっと傷付いた。物理的ではない。精神的に。
わたしが無傷でいては駄目だ。わたしがいちばん悪いんだ。わたしが甘えていたから。


ぽた、ぽたり。赤い滴がコンクリートに染みをつくる。ああ、ごめんなさい。わたしなんかの血をつけちゃって。せっかくきれいだったのに。きたなくなってしまった。


「なぁ、アンタ、だいじょうぶなんか」
「ッ、ひ、あ、……」


様子がおかしいわたしを見つけて駆けつけてくれたのだろう。ごめんなさい。わたしなんかのために。
さりげなく傷のあるほうの手を背中に回した。それから、首を横に振る。


「だ、だいじょうぶ、です。ちょっと、立ちくらみが、して、…」
「顔真っ青やで。あ、水あるけど飲む?」
「だいじょうぶです。だいじょうぶ、ですから、」
「アンタ、大阪のひとやないなぁ」
「そ、です…。うッ」
「あああ吐かんといて!吐くなら袋にな!」
「吐きません…」
「ほうか。ならええけど」


頭をぽんぽんと軽く叩くそのひと。それからそっと背中を撫でてくれる。その温かい手が、ちょっとおばあちゃんに似ていたから、急に動悸が治まった。


落ち着く。あったかい、手。


「おっ、顔色良うなったわ。背中さすったらええんやな」
「………あの、さりげなく、何して、いるんですか」
「えーなんもしてへんでー」
「さ、触り方、いやです…」
「えろいわぁ」


触り方がおかしいとか思っていたら、下着の線をなぞっていた。まさかとは思っていたけれど、それを考えると少しだけ涙が出て来た。


わたしを助けてくれたのは優しさからではなく、そういう目的だったのだ。う、悲しい。


「うう、いいひとだと思ったのに」
「ええひとやで。謙也さんは紳士や」
「けんやさん…?」
「おれ」


わたしはやっと顔を上げてそのひとの顔を確認した。目がちかちかするような、金髪に白い歯を見せて笑うおとこのこ。


「高校生…?」
「中学生や」
「中三ですか」
「おん。健全な四天宝寺中三年の忍足謙也や」
「おしたり、けんや…」


ぞっとした。


また気分が悪くなって顔を下に向ける。いやな汗が溢れ出る。忍足なんて、そんな苗字聞きたくない。


―――『有子ちゃんは、ええ子やね』『そんな心配せんで大丈夫や。跡部なら、なんとかしてくれる』『ほんまファンクラブにロクな奴はおらんのやな』


あのひとと同じ、しゃべり方。


―――『そ、れは、ほんまなん』『ほ、ほうか…』『どんな有子ちゃんでも、有子ちゃんは有子ちゃんや。な?』


「おい、だいじょうぶか?また顔色悪なって」
「う、ううん。だいじょうぶ…」
「はあ、しゃあないな。おれが送っていったる。そんな顔色じゃ、ロクに歩けもせんやろ」
「えっ!い、いや、だいじょうぶ。だいじょうぶだから。送ってもらうなんて、そんな」
「ええから、家、何処や」
「ほんと、だいじょうぶだから…!」


あのひとことを思い出してしまう。あのひとも、忍足って苗字だった。単なる偶然と信じたい。いや、偶然だ。そんな、あのひとに関係あるはず、ない。


このひとはこのひとだ。比べるなんて、よくない。


「け、んやさん、だいじょうぶだから」
「おっ、早速名前で呼んでくれるんか?」
「いやだったら、やめます…」
「ええよ。下の名前で呼んで」
「…わたしは、橋場有子です。同じく、十五歳です」
「んー、じゃあ、有子やな」


下の名前で呼ばれたとき、ちょっとだけ怖くなった。でも、あのひとと同じ呼び方じゃないから、ちょっとだけ安心した。


「有子、行くで」
「…ほんとうに、だいじょうぶです」
「敬語やめ」
「だいじょうぶ、だから」
「ああもう!謙也さまのご好意くらい受け取れや!」
「う、うう、……じゃ、じゃあ、謙也さん。お願い、します」
「謙也さんって距離あるなー。ま、ええか」


そう呟いて、謙也さんはわたしの前に座りこんだ。行動の意味が分からず首を傾げると、手をひらひらと振る。


「おぶさり」
「…わ、わたし、重いよ」
「重いかどうかはおぶってから決める」
「で、でも、」
「ええ加減にせんと、セクハラするで」
「……お願いします」


卑怯というか、セクハラって…。健全な中学生男子だからなのかな。


一瞬躊躇ってから、それから身体を預けた。あったかい。ああ、もうわたしもふつうになれたのかな。大阪に来たから、離れられたから、ちょっとは落ち着いているのかな。でも、やっぱり怖いよ。


「なに震えとるんか」
「う、い、いや、」
「男性恐怖症とかそういうあれか?」
「そういう、わけじゃないけど…」
「ふうん。まあええけど、今はおれに甘えとき」


―――『今は俺に甘えとき。有子ちゃんはなかなか甘えられるひとおらんみたいやし』


だいじょうぶ。だいじょうぶだ。平気だ。このひとと、これから先はない。だいじょうぶ。これが最後。またあんな目に、あうことなんてない。


―――『もしかして、俺らにつけ入るためやったんやないか』『最初から、それが目的だったんやろ』『ほんまはミーハーやったんを、隠しとったんちゃうか』『それで、そんな“癖”やってこじつけたと思うんやけど、どうや』『最低やな、自分』


ギリ、とてのひらに爪が食い込んだ。


あのひとは怖いけど、このひとは怖くない。そうだ。絶対。


「……」


もう、あんな目に、あいたくないよ。






きずだらけのあのこ
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