アリスは帰らない
今日は久しぶりの休日だ。おれにとって、ほんとうの休日。
いま、この沢田家にはおれと有子しかいない。ほかの居候たちは母さんといっしょにデパートに出かけてしまった。
母さんは気を利かせておれと有子だけ置いて行ってくれたんだ。今日ほど母さんに感謝した日はないかもしれない。


いままでにないくらい静まり返った家で、おれと有子のふたりっきり。有子は隣で寝転がって漫画を読んでいる。


「ねえ、有子」
「ん、なに」


おれがそっと呼びかけると、有子は漫画に目を落としたまま返答した。顔を上げはしない。それがすこし寂しい。


「有子、まだ元の世界に帰るとか、言っているの?」


ぴくり。漫画のページを捲る手が止まる。


これは、おれとリボーンと有子だけの秘密だ。有子は、この世界の人間ではない。突然、おれの部屋に現れたのだ。何もない空間から、急に。
最初はおれもリボーンもりんかを疑った。リボーンなんて、銃を構えたんだ。それには慌てて庇ったけれど。流石にこんな女の子を殺すのを見過ごすことはできなかった。
詳しく質問を続けると、有子は違う世界の人間で自分でも来た理由が分からないらしい。とりあえず監視をするということで、有子はおれの家に住むことになった。
数ヶ月いっしょにいるうちにリボーンの警戒もとけて、おれも有子に対する意識が変わっていった。


有子はまだ、顔を上げない。


「あたりまえじゃん。だって急にこんなところに来ちゃってさホームシックにもなるよ。それに、オレは安全第一だから!」


ほら、やっぱり。有子はまだ分かってくれない。
おれは静かに有子の正面に来た。漫画に集中している有子はおれに気付かない。


「有子、」
「おっ!わ、なに、ツナ。近いんだけど」


距離を取ろうとすることが分かったので、思わず手首を掴んだ。いきなりの行動に有子の肩が大げさに跳ねる。


「ずっとここに居てよ」
「は、い、いや、オレもみんなのこと好きだよ。ここもとても居心地がいいし。でも、オレは帰らなきゃ」


「おれ、有子のこと、好きなんだ」


口から滑り落ちるように言葉が出て来た。急に紡がれた告白に、有子は頬を火照らせる。澄んだ瞳が右へ左へ泳ぐ。再び距離を取ろうとおれの手から逃れようとするが、おれは余計に力を込めた。


「っ、い、ったい。痛いよ、ツナ」
「ねえ、有子、ほんとうだよ」
「…な、なに、言ってるのツナ。やだなあ、はは、ツナは京子ちゃんのことが好き、じゃん」
「有子が来てから変わったんだ。有子が急に現れて、リボーンが殺しそうになって、おれがそれを守って、いっしょに住んで、学校にも通って、獄寺くんや山本たちと仲良くなって、骸たちに会って……。
 そうやっていっしょにいるうちに、有子にどうしても帰ってほしくない自分がいることに気付いたんだ」
「ツ、ツナ…。で、でも、オレはその気持ちには、答えられない…よ」


有子が気まずそうに目を伏せた。困っているのも戸惑っているのも分かる。でも、おれはその返答が許せなかった。


「なんで?」
「オレは、元の世界に帰らないと。家族も、友達もいるから。オレは元の世界のみんなに会いたい。ツナのことも好きだけど、ずっとここにいるわけにもいかないよ。元の世界に大切なものがいっぱいあるから。だから、」
「だいじょうぶだよ。おれが家族や友達なんか、忘れさせてあげるから」
「一嫌だよ!家族も友達も、忘れたくない。オレの大事なひとたちなんだ!」
「……有子の大事なひとは、おれだけでいいよ」


強く握りすぎて、有子の細い手首におれの爪が突き刺さった。なんだか手錠みたいで、それで有子が留められそうな気がした。有子のきれいな赤い血が溢れ出てきた。


「ツナ!ほんとうに、痛いからっ!離して…!」


有子の瞳が潤んでいた。涙が頬を伝っている。有子は、泣き顔もきれいだ。


怯えているような表情をしている有子を安心させようと、おれは優しく微笑んだ。


「だめだよ。有子が帰りたくないって言うまで、離さないよ」


でも、有子のきれいな身体に傷をたくさんつけるのも(おれがつくった傷だと思うとそれもいいと思うけれど)なんだか勿体無いので、あらかじめ用意しておいた縄を取り出した。縄の跡は、しかたがないね。
もう片方の腕を引き寄せて、きつく縛った。有子は動揺してあんまり上手に抵抗できなかったようだ。それとも、受け入れてくれたのかな。


「なんで、縄なんか、しばる、の」
「有子のことこんなに愛しているんだよ。いままで他の男の目に映るのも我慢していたけど、もう我慢できないよ。だって、有子は何回訊いても帰るって言うんだもん。だから、これでもう他の男に見られないし帰れなくもなったでしょ。それにりんかが怖がっている危ないことにももう遭わない。不安に思うことなんかひとつもないよ」
「な、なに、言ってんの…?」
「そうやっておれだけ見ていればだいじょうぶ。おれだけいればいいじゃん。元の世界になんか、帰らなくてもいいから、ね」
「や、やだっ、ツナ!」


有子の頬に触れようとした。だけど、有子がその手を縛られた両腕で弾いてしまった。有子が必死そうな眼で首を横に振るのが見える。


「有子、…なんで、」


理解してくれない有子が悲しくて、寂しくて、堪えきれなくなっておれの目から涙が流れてきた。ぼろぼろと、情けなく泣いてしまう。


「おれのなまえだけ、呼んで。おれだけでいいって言って。おれ以外のひとと、話さないで」
「ツ、ツナ……」
「寂しいんだ、有子。おれ、有子がいなくなったときのことを考えたら、死にそうに、なるんだ…。有子が、元の世界に帰ったら、おれ、」
「ツナ、ごめん、泣かないで」
「有子、有子…っ」


縛られたままの両腕で、有子はおれの頭を撫でた。そうだ、有子はおれが不安になっているとこうやって、優しく撫でてくれた。いつだって、おれがだいじょうぶだって笑うまで、何度も撫でてくれた。
有子の肩に額を預ければ、おれの頭に頬を寄せてくれる。そうして、おれのなまえを優しく呼んだ。


「……でも、オレ、大事なひとがいるんだ。どうしても帰らなくっちゃだめなんだよ。ツナやみんなのこと大好きだよ。この言葉に嘘はない。だけど、やっぱりこの世界にオレは要らない存在だから」
「そんなことない!有子は、要らない存在なわけないよ!」
「ツナは優しいから、そう言ってくれるんだよ。ありがとう…」


―――それでも、帰らなくちゃ。


そっか。有子は、どうしても帰るって、言うんだね。


おれは有子から離れて机の下のダンボール箱に手を伸ばした。


「だめ、だめだよ。いやだよ、有子」
「ツナ!おねがい、聞いて!」
「帰るなんて、させない」
「でもっ」
「みんなのこと、大好きじゃなくていいよ。おれだけ大好きでいてくれたら、それだけでこの世界にいられるよ。この世界に必要な存在だって確信が持てる」


帰ろうとするなら、その足に足枷を付けちゃえばだいじょうぶ。あ、ちょっとだけサイズが大きかったみたい。でも有子の足ならすり抜けるのは難しいからこれでいっか。それに、窮屈なのは有子もいやだろうし、ね。あと、薬でも打っておこうかな。動きにくくしちゃえば、有子は帰らないよね。他にも何が要るだろうか。


「はは、そんな心配そうな目しなくてもだいじょうぶだよ。有子を不安にさせるものは、おれが全部消してあげるから」
「やだ、誰か、助けて!山本!獄寺!リボーン!」


有子はずるい子なんだなあ。おれ以外の名前を呼ぶなんて。そうだね、タオルでもかませておこうっか。まだ、有子は殺したくないからね。


「ん、んんっ!」
「だめだよ、有子。おれに嫉妬させるつもり?そんなことしたら、有子を殺してしまいそうになるなぁ」
「ッ!」
「まあ、その前に他の奴らみんな殺してからにするけどね」


ちょっと骨が折れるけど、有子のためならきちんと殺してみせるよ。あ、有子また泣いている。何がそんなに悲しいんだろう。元の世界のことが、有子を泣かせているのかな。じゃあ、忘れちゃえばいいのに。リボーンなら記憶を消す道具持っているかもしれないや。帰ってきたら聞いてみよう。


「心配しなくていいよ。元の世界の記憶なんて消してあげるから。そうしたら、有子を悲しませるものがひとつ消えるよ」


そうだ、目隠しをしておこう。他のものが見えなければ、有子を悲しませるものが現れても見えないから有子も安心するよね。


バランスを失って有子はごろりと床に転がった。目には白い布が、口には白いタオルが、手首には縄が、足には足枷が。うん、きっとこれでだいじょうぶかな。


「有子、痛くないよね。痛かったら言ってね。リボーンなら痛みも麻痺させる薬とか手に入れられそうだし」


痛みも不安も悲しみも、何もない。有子はおれだけで世界が構築される。なんて、いいんだろう。有子は幸せだよ。そんな有子とずっといっしょにいられるおれは、もっと幸せだけどね。


「愛しているよ、有子」


涙で濡れた有子の頬に、そっと口付けを落とした。






アリスは帰らない
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