彼の体躯はすでに限界を超え、兄の様を笑えないほどになっていた。どろりと流れる黒い血を拭き取って、申し訳程度の消毒を施す。わずかに細くなった眼に彼でも痛いのだと安心した。体温のない青白い肌は死人のようだ。悪魔は生者と呼べないとするならば、それは誤りではないのだろう。手の止まったわたしを、彼は訝しげに見下ろしていた。


「早く終わらせてください」


風邪でも召されますか、と冗談を交える。メフィストは馬鹿馬鹿しいと息を吐いた。そっと、まだ侵食の進んでいない皮膚に触れた。どんなに上等な治癒をしても、彼の身体は彼の力に蝕まれてゆく。せっかく何百年も身を落ち着けている器だというのに、こんなことで失ってしまうことは悔やまれた。時代を超えるにつれて彼の器に相応しい人間は減っているように思う。人間も堕ちたものだ。下級悪魔に平気で身体を受け渡す。そんなものを、どうして護らなければならない。彼が犠牲になる必要がどこにある。


「人間なんて、滅んでしまえばいいのに」


辟易するほど増えた人口、汚染されゆく大地、悪魔の寝床と化す社会、虚無界との境が曖昧になった物質界。救われたがっているのならば、神にでも縋ることだ。人間は人間によって護られるべきだろう。宿敵に知恵を請い、力を乞い、肉体を賭せと望むことなど傲慢だ。だから、人間なんて大嫌いだ。自らの愚かさを恥じることなく交渉の手立てに使う。愛しいひとをこんな身体にさせる、わたしなんて大嫌いだ。


「心配されずともこの程度で私は死にませんよ。何年物質界に居座っていると思っているんですか、……それに、私はあなたの生きるこの世界を手放すつもりもありません」

「手放してくれたほうが、いっそ清々する。私は悪魔にだって成るよ」

「私は人間を愛しているんです」


だから、人間なんて滅んでしまえばいいんだ。頬を伝う涙を拭ってくれるその指先が、わたしのために在るものなのか判らなくなってしまうから。人間がひとりぼっちになった世界で、彼はわたしを愛していると囁いてくれるだろうか。焦土と化した世界で悪魔に成ったわたしを抱きしめてくれるだろうか。そんなことを願うことすら、わたしには許されていないことだというのに。頼りない薄い身体に額を摺り寄せ、腰に手を回した。


「あなたはこの傷を見るといつもそんな調子になる。そんなに虚無界へ連れて行ってほしいんですか」


連れて行ってほしい。人間がわたしだけしかいない世界へ、わたしだけしか見えない世界へ、あなたの眼が眩んでしまえばいい。そのくらいわたしに沈んでしまえばいいのに。


「でも、きっとメフィストが見えなくなってしまうことなんてないだろうから、わたしは望むだけで精一杯なんだ」


血のにおいに混じって甘ったるい駄菓子の香りと冷たい消毒液の芳香と、それからメフィストのにおいがする。悪魔と人間の入り混じったにおい、わたしはあなたが好きだ。何もかもを捨て去ってここに来た。両親も兄弟も友人も、地位も財産も、みんな捨てた。それに見返りを求めることは、きっと悪いことだ。人間を愛すると語るその道化を利用したのだから。ねえ、だからわたしは人間が大嫌いで、あなたが大好きで、人間を愛しているあなたが憎いんだよ。


「求めよ、さすれば与えられん……と、仰ったそうじゃないですか、あなたがたの神は」


わたしの瞳が、ゆっくりと彼の瞳に呑み込まれる。そして、冷たい唇が熱を持つわたしの唇に重なった。甘くもない、ただの口付けだった。彼の瞳の奥に真っ赤に眼を腫らせたわたしが映っている。こんなに鮮明に見えるなんて、初めてだ。


「ねえ、わたしの世界をまもって」


返事は、彼の鼓動が応えていた。




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アレ、えろの予定はどこへ行った。
(2017/05/02)