都会にしてはよく光る星だな、と夜空を見上げていたときのこと。イルミネーションのごとき街明かりが煌々ときらめくこのヨコハマでも星は見えないことはない。しかし、あんなに主張激しく光る星はあったろうか。天文学に明るくないが、さてと検討でもつけてみるかと目を凝らした。そして判った。あれは星ではなく、何らかの物体が飛行しているのだと。さらに理解してしまった。それの進行方向は真っ直ぐ自宅に、正確にはこのわたしにあるということを。「危ない」と口走ったときにはもう遅い。飛行物体は我が家のベランダへと墜落した。




わたしが無傷で済んだのは、咄嗟に開いていた窓から室内へと逃げおおせたからである。間一髪だった。しかし煙に包まれたベランダは墜落時の音を鑑みても凄惨な状態であることは間違いなかった。ご近所が無人で良かった。近頃物騒さが増してきたヨコハマから一家総出で他所へ越すご家庭は少なくない。我が家の隣人も同様だ。ようやく煙が晴れ、わたしは隕石を確認する。ゲホゴホと咳き込むそれは会話を為せそうなナリをしていた。蹲るその背はわたしと類似していた。わたしの凝視の目と合った鋭い眼差しは獣よりもずっと冷たかった。なるほどこれは人間であった。人間が、墜落してきた。

「シータはもっとゆっくり下りてきてくれたよ」
「俺はシータじゃねえ……」

明るい赤髪の男は汚れたハットを被り直した。



太宰め、許さねえ、絶対許さねえ。とひたすら繰り返す男を部屋に上げることを躊躇いはしなかった。彼から怪しさが滲み出ていたが、こうして善人を気取っていれば見逃してもらえるだろう。甲斐甲斐しく世話を焼いて他言無用を誓ってご帰宅願おう、そうしよう。乱れた懐から覗いていた鈍く光る拳銃を、わたしは見ない振りした。埃まみれになって居心地悪そうにしていたので、シャワーを提案してみる。男は露骨に驚いてみせた。

「手前正気か」
「まあ、わりと。このまま追い返すのは良心が痛みそうですから」
「…………着替えはあるのか」
「男物の下着はありません、あ、わたしのお使いになりますか」
「正気じゃねえだろ、矢張り」
「冗談です。新品のものがありますから、それをお使いください」

男の目はますます鋭くなっていく。さすがにあからさまだったか。ここまで世間知らずだと怪しく見られる。わたしは少しばかり欲を見せる作戦に出た。とりあえず夜は越したいのだ。人差し指と親指で丸をこさえ、即興の笑顔を浮かべる。「ベランダの修繕費は弾んでください」と守銭奴らしく。実際弁償してもらわないととてもじゃないがここに住み続けられない。このままなかったことにされては困る。男は渋々頷き、シャワーを借りる提案を受け入れた。着替えを持っていくことを告げ、風呂場まで案内する。男は頑なに背を見せようとしなかった。そのあまりに自然な仕草がわたしには目についた。風呂場のドアがしっかり閉まってから呟く。

「カタギのお人じゃないのか、まずったなあ」

仕方ない、今日は上手くやろう。まだ死にたくはないからなあ。自室から買ったばかりのシャツ、ズボン、それから女物のボクサーパンツを引っ張り出してタオルと共に支度した。あのひとは細身だったし身長も高くはないからサイズは問題ないだろう。お湯でも沸かしてお茶の用意でもしておこうか、そんなものを飲む前に早々に帰宅してほしいのだけれど。カップを選別しながら男の呟いていた「太宰」という人の名らしき固有名詞を思い出す。太宰、太宰……治、かな。真っ先に思い浮かぶのはそれくらいだ。何でもいいし事情も知りたくない。どこまでも穏やかに緩やかに、健やかに生きてゆきたい。そのためにはまず、

「ホールドアップ、ですかね」

わたしはコンロの火を消して、両手を頭の上まで掲げた。背後には男が拳銃を突き付けて立っている。見なくても分かる、その引き金にはもう指がかけられているのだろう。全く気が付かなかった、ドアの開く音さえ聞こえなかった、いっそうこのひとが恐ろしく思えてくる。男はシャワーなど浴びておらず、先ほど同じ有様だった。

「迷惑をかけたことは謝罪する。露台の弁償も請け負ってやる。但し、俺のこと……今晩のことは之を限りに忘れろ。二度と思い出すな、いいな」

首は縦に二回揺れる。腰の冷たい感触は名残惜しそうに離れた。両手は上を向いたままだ。「賢明だな」とお褒めの言葉を戴くもそれを喜ぶような心持ちは存在しない。振り返ることもできなかった。男は言葉を続けた。

「後日遣いを寄越す。其れ迄に精算は終えておくことだ」

そのまま立ち去りそうだったので、慌てて「あの」と声を上げた。わたしは確かめたいことがあった。とても、些細で大事なこと。

「その、ほんとうに遣いの方か確かめるために……あなたのお名前をお伺いすることはできますか。用件が済めばすぐ忘れますから、確認だけですので偽名でも結構です。差し支え無ければお願いできますか」

我ながら肝の据わった台詞である。身体が恐怖に震えている、真っ当な反応だ。それでもわたしはこれを訊かずにはいられなかった。あなたは、

「……中原中也だ」
「……ずいぶん文学的なお名前ですね」
「如何いう意味だ?」
「いえ、何も。わざわざお答えいただきありがとうございます」

中原中也。わたしはそれを再度反芻する。太宰治に中原中也、そろそろ浅学なわたしでさえ理解ができる。このヨコハマが、横浜ではないことを。つい先日まで居を構えていた場所ではないことを。

「邪魔したな」

音もなく消えたあの男が、かの早逝の詩人中原中也と同じ名を冠し我が物としていることを。男が太宰治と知り合いであり彼もまた激動の文学者ではないことを。ここは、

「何処のヨコハマなんだろうか」

わたしの存在してはならない世界であることを。

しかし、わたしは気付いていないことがあった。それは、かのポートマフィア中原中也との出逢いがすべての歯車を「正常に」動かし始めてしまったことである。この後、変化は著しくわたしの目前に降り立つこととなる。あの男はまさしくわたしの運命の星として墜落したのだった。



ファタール・スタア







長編の冒頭になってしまいました。ここから始まるラヴアンドコメデー。書く日は来るのか。

(2016/11/16)