情けない音が響き渡る。頬を打たれる音というのは存外爽快なものではない。女の平手打ちなど頬の肉をわずかに揺らして長い爪で皮膚を引き裂く程度の軽傷で済む。数多の経験から得た実害だ。今回はおまけに水までぶっかけられてしまった。大事な一張羅が台無しだ。涙に目を腫らして踵を返す女を見送りつつ今日の宿泊地について思案した。

「よ、色男」と肩を叩いて現れた女に、俺は笑顔で応える。これで今日は泊まるアテが出来た。赤く腫れた頬に冷えた手を添える彼女に、ゆっくりと口づけを落とした。







翌朝目を覚ますと隣で寝ているはずの女は不在であった。浴室に向かうもそこはもぬけの殻で、玄関には履いていた赤いパンプスすらない。代わりに、薄汚れたスニーカーが無造作に脱ぎ捨てられている。やけに見覚えのあるスニーカーだった。

「ザップくん、今日の仕事は午後からでしょう。お昼ごはん食べて行きなよ」

キッチンからひょっこり顔を出したのは、昨晩のピンクの口紅の女ではなくて、リップすら塗られていないかさついた唇の女だった。

徐々に目覚めていく脳みその中でその女が誰であるかを思い出す。温もりの失せた毛布から端末を探して当てて着信履歴を確認した。シット、彼女に連絡したのは自分だったか。俺は漂ってくるチーズの香りに腹の虫で返答した。

「悪い、俺寝ぼけてただろ」
「なかなか。女の子の暴言が聞こえる中『明日迎えに来てくれ』なんて言うものだから、呆れちゃったよ」

なるほど、両方の頬が痛む原因はそれだったか。情けない顔と笑いながらも、青子は濡れたタオルを頬に当ててくれた。昨日の女に何の不満があったかもう思い出せなくなってしまっているが、青子を呼びつけるくらいだからよっぽどのことがあったのだろう。自分の住居を放り出すくらいだ。知らない女のにおいが染み付いた一室を後にしてダイニングのほうへと足を向ける。香り立つ珈琲がちょうど注がれたばかりだった。

「どうやらね、この家もうすぐ引き払うつもりみたい。いっしょに住んでた男の人と別れたのかな、たぶん」
「そんなこともわかんのか」
「部屋を観察すればわかるよ。ザップくんには無理だろうけど」
「おまえなあ、」
「ほら、朝ごはん兼昼ごはんできたよ。召し上がれ」

しらっとはぐらかされた。食パンにハムやチーズをはさんでその上からさらにチーズを載せてこんがりと焼き上げたそれは、……名前が思い出せない。とろけたチーズが美味そうだ。

「クロックムッシュだよ、ばか」
「ばかじゃねーよ」
「ふふ、ムッシュー、セ・ボン?」

まだ食べてねー。ナイフとフォークを上手に駆使して一口、調味料の都合上味はシンプルだ。ただ、濃厚なチーズのセンスがいい、空きっ腹にこの味の濃さは俺の望んだとおりの朝食である。ハムの焼き加減も上々。あー、なんつったか、セ、セ、

「セックスだっけか」
「真昼間から下品なことを言ったらぶっ飛ばすよ」
「もう言っちまったじゃねーか」
「じゃ、ぶっ飛ばさないと」
「食事中に立つな、行儀悪いぞ」
「きみがそれを言うんだなあ」

テーブルの下で執拗に脚を蹴られた。上半身裸の時点ですでに問題なのだが、彼女はそれをもう諦めてしまっている。数日やそこらの関係ではない。フォークが煩わしくなって手掴みにクロックムッシュをいただくことにした。顔をしかめながらも手拭きを差し出す青子。俺、おまえのそーいうとこ愛してるぜ。と、愛の言葉を囁くも、やはり顔をしかめられた。

「そーいうとこも」
「ザップくん、そんなに時間ないんだから、早いとこ食べちゃってよ」

わりと本気の台詞さえこのザマだ。わかっていたが、ここまで突き通してもらうとこちらの面目が立たない。彼女は無自覚に男の自尊心を壊すばかりに、何人の「色男」を逃してしまったのだろう。それを思うと切なさが込み上げてくる。しかし、俺にとっちゃ都合がいいモンだ。

と、とと、窓を打ち付け始めた水滴に、自然と目がそちらへ移る。灰色の空が当たり前のここが、さらに薄暗く淀んでいた。

「あ、雨」

少しずつ雨足は強まっていき、窓外の景色が色付いていく。喧しい車の走行音も布をかけたように小さくなった。青子はぼんやりとその様子を、どこか嬉しそうに眺めていた。

「ねえ、ザップくん、今日は車で行こうか。乗せてくからさ」

全くの他人の家で、俺たちは静かに午後二時を迎える。

「そンなら、もうちっとゆっくりできそうだな」
「そうだね」

最後の一口を口に放り込んでしまってから、珈琲のおかわりを要求した。



時雨に傘







わたしのいるところはすっかり快晴です。

(2016/10/06)