だれもいない立方体へ、「ただいま」と声を投げる日々はもう何日目だろう。さいしょのうちは淋しさや虚しさが胸を渦巻き、涙が出てくることもあった。けれど、もうそんなことは飽きてしまった。ただあたりまえのように、習慣化してしまった。
数冊の教科書とノートなど、勉学に必要なものを詰め込んだ鞄を玄関のわきに落とし、ローファーを脱ぐ。ちゃんとくつそろえてから上がりなさいよ、と言う母の小言を空耳で聴きながらつま先をドアのほうへと向けた。鍵を閉めたか確認しようとドアノブに手を伸ばすと、ふいにドアノブが遠ざかった。


「ただいま」


ひとり暮らしのはずの一部屋に、わたしではないだれかの帰宅が知らされる。首をぐっと伸ばして顔を見つめた。


「あきらくん、ここはあきらくんのおうちじゃないのだけど」
「おかえりが聞こえんなあ」
「あきらくんってば、……おかえり」


あきらくん、ともういちど呼ぶ。満足げに笑んだ彼はわたしの代わりに鍵を回した。あきらくん、御堂筋翔くんがわたしの部屋へ訪れるのは久しぶりのことだった。くるりとローファーを回す彼の指先に懐かしさを感じる。ああ、そうだ、夕食の支度を始めないと。


「きょうの夕食、どうしようか。あきらくんはなにか食べたいものある?」
「青子、タオルがかかっとらん」
「たのむから会話をしてくれないかなあ、もう」


濡れた手へとタオルを渡して、ふたたび夕食の話題を持ちかけた。あきらくんは何でもいいといちばん困る回答を寄こした。頭の中で、冷蔵庫の中身とレシピを照らし合わせあきらくんの好みに合いそうなメニューを検索する。その間、あきらくんはベッドに腰掛けてぼんやりと空を見上げていた。やることがないのならテレビでも観ていればいいのに。電気代がかかるので本心でのことばではない。


「青子」とあきらくんが自分のとなりを二、三度たたいた。


「夕食が遅くなるよ」
「僕はここに晩御飯を食べに来たわけやない」
「スポーツマンは健康第一でしょ」
「ええから、早よ」


このわがままくんは。持っていた布巾をテーブルのうえに置いて、あきらくんのとなりに腰掛けた。ソファーのないこの部屋でくつろげる唯一の家具だ。わたしが座ると、あきらくんはすぐにベッドから降りてわたしの膝に頭を載せる。そして腰に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめる。あきらくんのまぶたはしっかりと下されていた。すこしためらわれたけれど、そろそろとてのひらを彼の頭に置いた。赤子を撫でるように、我が子を撫でるように、ゆっくりと手を滑らせる。あきらくんは抵抗しなかった。


愛おしさと慈しみ、それからすこしの哀情を孕んだひとみを、彼へと向ける。彼は、ただしずかにわたしの鼓動へと耳を傾けている。まったく早まることのない心臓の音を、落ち着いて聴いている。




あきらくんはいま、母の腹のなかにいるんだ。




きゅっと結ばれたまぶたで真暗な、あたたかな羊水で満たされて静寂の、母の愛で包まれた腹のなかに。
聴こえるのは母の鼓動だけ。一定のリズムを刻むそれに、胎児は全身を震わせる。


「(いつまでも、きみは乳離れしないんだから)」


どうしようもないその赤ん坊を、わたしは抱きしめる。まだ知らない、わからない、そのはずの慈愛を胸に、頬を擦り寄せる。


「(そんなあきらくんが、わたしはどうしようもなく愛おしいよ)」


日が沈み、空はすっかり橙色の光を放っていた。開け放たれたカーテンからオレンジが差し込む。




もう、夕暮れ時になってしまっていた。








朝生まれた小鳥






御堂筋くんらしい話を書けたと思いたい。

(2014/06/08)