三輪子猫丸。
男にしては丸みがあって、女にしては角ばっている、その黒い文字をそっと指でなぞった。シャープペンシルで書かれた字は、細くて繊細だった。
「きれいな字だな」
思わず感想が口を出た。気がついたときには遅かった。どうせ誰もいないだろう。だったら、ひとりごとくらい。
もう一度その名前を見返して、答案用紙を持ち上げる。
「九十、五点」
本日実施されたばかりの英語の小テストの答案用紙だった。エクセレント、と筆記体で書かれている。その字は、あまり魅力的に見えなかった。やはり、このひとの字がいちばんきれいだ。
彼はこのクラスなのだろうか。それとも偶然ここに落ちていただけ、だとか。可能性を考えるときりがなさそうだ。
ただ自分のクラスではこのテストは今日行われた。他クラスの情報はないが、今日落としたとすればこのひとはクラスメイトだということになる。自分のクラスの人間も把握していないとは、少しまずいだろうか。
とりあえず、私は彼のことが知りたい。この字を記していく彼の指先を眺めたい。きっと、この字のようにきれいなんだろう。
「三輪子猫丸、……」
「あ、あの、……どうかされたんですか?」
驚いて答案用紙をつまんでいた指の力がゆるんでしまった。白い紙がひらりと舞って、九十五点とエクセレントが目の前で踊る。それは、床に着地した。
拾わなくては。そう思ってきれいな字に手を伸ばすと、もう一本、手がその字を目指して伸びてきた。
はた、となにか直観のようなものがひらめいた。
「三輪、子猫丸くん、ですか」
字に見とれていた私に話しかけてきた彼、坊主頭の彼に、私は尋ねた。
「そ、そうです、けど……」
彼は軽く身を引きながらうなづく。
やっぱり、と口先でこぼれた。
「うん、三輪くん、これは三輪くんの答案だよ」
「なんであないに凝視されはってたんですか」
「凝視していたかなあ」
「びっくりしましたよ」
「ごめんなさい。これ、返すね」
三輪くんよりも先に答案用紙を拾い上げて、彼の鼻先に突きつけた。彼の顔には見覚えがあるようなないような、ぼんやりとした認識しかない。
でも、彼は、彼こそが、三輪子猫丸くんだった。
「三輪くん、三輪くんの字はきれいだね」
きょとん、と眼鏡の奥で丸い目が動く。その表情も無視して、私は言葉を続けた。
「私は三輪くんの字が好きだよ。今度、いっしょにお勉強しよう」
しばらくの沈黙。
三輪くんの戸惑ったような声が静寂を切り裂いた。
「ど、どういうことになっとるんですか?」
「うん?私は三輪くんの字が好きなんだって」
「それはありがとうございます」
「だから、いっしょにお勉強しよう」
「そこのつながりがわからんのです」
「三輪くんが勉強しているところが見たい」
「へんなおひとやな……」
「そうかなあ」
そうかなあ、ともう一度呟いて、私は自分の鞄を拾い上げた。これは答案用紙を発見したときに落としたものである。ちょうどそのとき、ぼんやりと自分の答案を眺めていた三輪くんが私のほうを向いた。
「まあ、でも、字を褒められるんは、いやな気しませんね」
そう言って、まゆを下げて、目を細めて、指で軽く頬を掻く三輪くん。
「それはよかった」
エクセレントで九十五点な英単語だらけの答案用紙。
「それは、よかったなあ」
どうやら、私は字ばかりでは物足りなかったようだ。
さいしょのアンサー
(2013/09/26)