始めて明日を憶う今日

気が付けば開けた場所に出ており、立派な屋敷が全く風景に馴染まないで建っていた。家屋は概ね崩壊するか炎上するかしているなか、この屋敷はひとつの傷も見せることなくそびえている。なるほど、これが魔法か。ギルガメッシュは躊躇いなくその屋敷へと足を踏み入れた。仰々しい門がひとりでに開いて、まるで家主を迎えるようだった。事実、ギルガメッシュはこの屋敷の主人らしい。生き残ってしまった以上生活拠点心配をしていたが、それは保障された。私がギルガメッシュの機嫌を損ねない限り、ここにいても差し支えないのだろう。向かいの椅子を勧められた際、そう思った。

「魔術の心得も持たぬ身でよく生き延びられたものよ。」
「その『泥』が流れ出したときって夜中でしょう、私は寝ていたからなあ、覚えてないんだ。目が覚めたら家は崩れているし母は隣で死んでいるし、混乱なんてものじゃないね。もしかしたらまだ錯乱しているのかもしれない。だって、涙も出ない。」

頬を拭ってみても、黒い煤が肌を汚すばかりだった。愛すべき家族を失い、進むべき進路を失い、生きるべき世界を失った。それなのに思考は冷淡で、目の前の男に縋る術を模索している。世界に落胆したにもかかわらず、私はまだ生に貪欲だ。

「泣けば、ギルガメッシュは私を見放すんだろうね。」
「そう思うか。」
「私は生きることに執着しているから、だからあなたのもとにいられるのだと考えているよ。もしこの現実に絶望し悲観していれば、あなたは私を認識すらしなかったはずだ。」
「その前にアンリマユによって呑まれていただろうな。」
「なるほど。」

たらればなどというつまらない談義は人間の好物であるから、私の熟考はそちらへ移るしかなかった。無為であることを理解しながら「もしも」の可能性を追う。結局ギルガメッシュは私を認識し同伴を許したのだから、全くの無駄であった。思考が終わればまた退屈になってしまい、揃えていた足をわずかに崩した。このくらいの無礼など留める気すら存在しない様子だ。傲慢にして尊大な王だ。
ふと、空腹を覚える。そうか、目を覚ましてからというものの何ひとつ口にしないまま徒労に勤しんでいた。世界が滅ぶと知っていれば備蓄のひとつでもしていたものだが、生憎予知も予感も予報もなかった。残念ながらこの身に食糧はひとつとしてない。ここはひとつ、目前で酒を嗜む男を頼るほかあるまい。よく酒なぞ飲めるね、という皮肉から懇願を始めた。

「今は朝方なのかな。」
「時間という概念も最早無意味だな。」
「そうだね……空は真っ赤でわからないうえに時計も動いていないようだ、これじゃあ何に従って生活すれば良いのか、」
「フッ、己が赴くままに。」
「たいそうなことだ。」

じっとその様を見つめていると杯を傾けてきた。あわてて首を振り、その後で都合よく腹の虫が鳴いた。ギルガメッシュはくつくつと喉の奥で笑い、宝物庫とやらから豪勢な食事を並べてくれた。しかし、これは寝起きの胃て食べるメニューではないな。遠慮など要らぬというお言葉に甘えて、明るい橙色のドリンクから手を伸ばす。甘露のごとき至福の味だった。

バランスよくと努めつつたんぱく質を存分に味わってしまってから、この食事の鮮度について疑問に思った。……無粋なことを訊いてはご気分を損ねるやもしれない、その疑問は腹の底で美味たる食事とともに消化してしまうとしよう。ふう、と一息吐いて水を飲む。とても大災害の後とは思えないほど不安も不満もない食事だった。異常も慣れてしまえば平常と化すものだな。人間の脳みそは単純で、屋根の下で腹を満たせば安堵する。私はぼんやりと窓の向こうの赤い世界を遠い国のように見やった。

「私、は、これからどうすればいい?」

私たち、と口をついて出そうになった。そんな莫迦な話はない。ギルガメッシュは将来のことなど、とうに決定しているのだろうから。決まっていないのは、現状私だけだ。

「貴様は何を望む、青子。」

どうするかではなく、どうしたいか。私が何を望むか。それもそうだ、この世界にはもう制約も契約も、ない。今まで歩んできた道は元より敷かれていた多数の軌跡で、それが失われた今、己が道を己が手で開かねばならないのだ。

私は、何を望んでいる?

「……私は生きることを望んでいる、生きたい、何か高い志や淡い夢さえもないけれど、生き延びてしまった以上は生きたいと願わざるを得ないよ。母は死に、他の家族もきっと無事ではない、親しい友人も今となっては過去の人間になっている、見渡すばかりの焼け野原で安寧の地もない、何もかもが壊れてしまった、けれど、それでも、私は、生にしがみつきたい。」

だから、ギルガメッシュ、あなたのもとに置かせてほしい、この身を、この命を、この生を。

「私が生きるために、それは必要なことだから。」

嘘偽りはない、それを吐くだけの技量がなかった。彼の瞳は見抜く者のそれだ、不誠実に答えれば私の望みは叶わないだろう。酒の肴程度にはなったろうか、ギルガメッシュのグラスの中は空になり、酒が注がれる。同時に光の輪の中から新たに杯が現れた。それを私の方へと向ける。

「私、酒は嗜まないよ。」
「この王からの誘いを断れるほどの嗜好か?」
「いただきます……。」

素直に杯を交わすと、彼は満足げに一口傾ける。それに合わせて私も少しだけ舐めた。途端に喉の奥が焼けるように熱を持ち、腹の底から頭の頂まで血が駆け昇る。すぐにグラスを下ろして「無理だ」と根を上げた。こんなにも度数の高そうな強い酒を飲んだことはない、たったの一口でこんなにもくらくらするのだ、頭が回らない。

「然程期待はしていなかったが、そこまで貧しいとは想定を超えておるぞ。」
「王様と一緒にするものではないよ、……。」

脳味噌が重い、疲労も相まって身体は意識を飛ばそうと躍起になっていた。しかしそんな無礼を働くわけにはいかない、たったの今分不相応な依頼をしたばかりなのだから。

「ごめんなさい、……もう、席を外しても……?」
「構わん、階上の寝室はどれでも好きに使うがよい。」

では、お言葉に甘えて。と、私は早々に席を立ち、最も狭そうな一室を選び取った、それでも自宅のリビングよりもずっと広い。生涯二度として腰を沈めることはなさそうな寝台に躊躇なく飛び込んだ。ああ、もう、眠い。今日は疲れてしまった。明日のことは明日考えるとしよう、今日はもう明日を考えたくない。

そういえば、ギルガメッシュに明確な返答をもらっていないが、それさえも些事に思えた。世界の終焉より一日目は、存外呆気なく夜を越すこととなった。




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