始めて明日を呪う今日

それは人の声だった。確かに人の、生きている人の、肉を焦がされ呻くものではない人の肉声であった。声の主を確かめようと渇いた目を見張る。黄金色が、瞬いていた。赤ばかりの視界に、輝く金色が目に飛び込む。生存者は、男は、日日のごとく眩い毛髪と焔のごとく盛る両眼をしていた。好奇に満ちた面持ちで私を見据える。私もまた、好奇ではなく数奇に満ちた心持ちでその男を見た。

「貴様、名は何という。」

何が起こっているかも何故起こっているかも訊かれずに、まずは名前を訊ねるとは想定外で拍子抜けした。少し躊躇ってみたが、倫理も摂理も破滅した世界において己を隠す必要も感じられなかった。私は「四島、青子」と本名を名乗った。男は満足げに肯き、空を仰いで地を見渡した。まるで終わった世界を確認するかのような作業だった。その何の不満もなく疑念もない様子に、半ば苛立ちを覚える。現状よりもこの男の挙動のほうが訝しい。異質だ。

「青子、貴様はこの惨状を如何様に捉える。」

その言葉に、私は今まで見てきたすべてを脳裏に思い浮かべた。母の焼死体、隣人の血、家屋の瓦解、都市の崩落、……世界の終焉。

「世界が、終わっちゃったんだな、と。」

敬語を使うことは少し癪だった。一声目から偉そうな口振りだったうえに自分が何者かも明かさず、解っていることを確かめるように訊かれることが不愉快だった。

「事態を把握はしているか。生き永らえた者だ、そうでなくてはならぬ。」
「あの、生き永らえたって、あなただって生き残っているでしょう。」
「当然のことだ、この人類史に幕を下ろした者は他ならぬ我なのだからな。」

思わず、言葉が出なかった。私は男の言葉を頭の中で反芻し、今度は口に出した。「つまり、この大災厄を起こしたのは、あなたということ?」と訊ねる。瞬く間もなく男は首肯した。人という人がみな死んでしまい、大地は赤黒く燃え盛り、空は黒ずみ先を見せない。そんな到底想像も叶わないような悲惨な有様を、こんな男が引き起こしたというのか。

「人間であることは、間違いないと思うのだけれど、」
「間違いない。我は受肉した、確かな人間だ。」

男は人間で、人間に違いなかった。人間離れした所業をやってのけても、やはり人間であることを辞めていなかった。人間業と呼べずとも、男は人間なのだ。すなわち、この世界の終幕も、人間業なのである。人によって人が終わってしまった。終わらせることが、できてしまったのだ。

「どうした、感想を述べる余地を与えてやろう。「
「感想、ったって、……ああ、世界は人間ひとりでも終わらせることのできるものだったんだな、と、思った、かな。」
「ほう、?」

その赤い目から視線を逸らし、火の赤を見る。ごうごうと、轟々と、空に届かんばかりに立ち昇っている。母はこの炎に焼かれた。未だに自分が延命できた理由が解らない。隣で炭になるまで燃えた人間がいたのに、私は無傷に近かった。何が私を生かしたというのか、その答えを得る前にこの男に出逢ってしまった。世界を殺した人間に出逢ってしまった。

「世界なんて広くて広すぎて人間ひとりではそれを理解することさえ不可能だと思っていたのに、呆気なくひとりの人間によって滅ぼすことができた。あなたがどういう人間で何の力を持っているかは知らないけれど、それでも人間と名乗るのならあなたは人間なのだろうし、それを疑うつもりもない。だから、その、上手くは言えない、……人間にも滅せる、その程度のものに、私は生きていたのだ、というくらいの感想しか述べられない。」

口下手が祟った、と拙いながらに感想を伝えた。失望と一言でまとめればよかったか、いや失望というよりは、

「落胆、か。」

そう、それだ。あーあ、とか、がっかり、とかそういう感情が目を覚ましたときに過ぎった。望んでいたわけではなく期待していたわけでもない。それでも、自分が生きるこの世というものに少なからず理想は抱いていた。だだっ広くあれ、未知であれ、そのくらいの理想だ。しかし、だだっ広く未知であったが、終いは容易に訪れた。だから、私は落胆した。


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