弥生にて、静寂





チャイムの音が、閑静な室内に響き渡る。

たしかに人間はふたりいるのに、まるでだれもいないかのように感じさせるほどこの一室は静かであった。物音ひとつ、立たない。
雛はその重い腰をゆっくりと上げ、玄関のほうへとスリッパを鳴らした。三成は相も変わらず瞑想を続けている。

「ごくろうさまでした」

雛はドアを閉め、鍵を回し、再びスリッパを鳴らして三成のほうへと戻ってきた。その手には茶色の小包が抱えられている。三成はそれをしばし見つめたが、すぐに興味が無さそうに視線を移した。

すこしは関心を持ってもよいものを。

雛のそのような眼差しも、彼に届くはずなどない。しかたなくテーブルにそれを置いて、元の形を崩さないように慎重に包みを開き始めた。


中から出てきたのは、誰でも知っている老舗のチョコレートだった。


「チョコ、ですか……」

同封されていた手紙を読むと、「ちょっとおそいバレンタインデイだ。お返しは乾き物をよろしく。甘いものはぜったいに送るな」といった旨を三枚もの便箋に渡って書き記されていた。おそらくバレンタインデイなど無関係にこのチョコレートをひとからもらったのだろう。甘いものが苦手な彼女は「お返し」目当てに雛へと処理を頼んだ。そういう算段だ。
直接渡しに来なくて良かった、と電車で二駅ほど先に住む彼女を思いやる。家に来られたら、彼のことを説明しなければならなくなる。こんな包みも無関心である、彼のことを。

「それはなんだ」
「……、いつのまに背後に立たれたのですか」
「いまだ」
「音くらい立ててください。とは、無理な相談でした」
「それで、」

いつになく好奇心が旺盛な三成に、雛は驚いていた。

「これはチョコレートという外国の菓子です。原材料などは説明しても意味がありませんね……なんといいますか、砂糖菓子のようなものです。とても甘いので、三成さんにはお勧めし難いですよ」
「外国の菓子か……」
「わたしの家にはあまり洋菓子を置いていないので、三成さんにとってはめずらしいものになりますね。食べてみますか」

一度だけ首肯された。雛は比較的甘さが控えめのものを選び、三成の手に載せた。三成はまじまじと見ることもなく、ためらいなく、口にチョコレートを放り込んだ。


うっ、という低い声を、雛は聞き逃さなかった。


「渋めのお茶でも飲みますか」
「……頼む」

三成の絞り出すような声は真っ青な顔と相まってひどく苦しげに聞こえる。
実のところ三成は苦しいのだろう。初めて食べる味にこの甘さは、薄味派の戦国武将殿のお気には召さなかったようだ。
雛はけらけらと笑いながらポットのボタンを押す。

「ずいぶんと興味津々でいらっしゃったようですが、とつぜんどうしたんですか」

専用の湯呑を渡すと、三成はそれをいっきに飲み干した。飲み終えると眉間のしわが数本減っていた。

「雛の戻りが遅いゆえに何事か遭ったのかと思っただけだ」
「手紙、文を読んでいたのです」
「友からか」
「はい、友人からでございます」

便箋を封筒の中に戻し、自分もといちばん左端にあったチョコレートをつまんだ。自分にはちょうどよい甘さだった。口の中で溶けゆくチョコレートを舌で遊びながら、次に食べるものに目を移す。

「三成さんは、お煎餅でも食べますか」

おそらくこの台詞は最後まで言うことは出来なかっただろう。

雛が振り返るのと同時に、彼女のくちびるは三成のくちびるによってふさがれていた。

ぬるりと舌が口内に入り、まだ残っていた固体を舐めとる。執拗に舌を絡め、歯の裏をなぞり、その固体がすっかり溶けきってしまってから、三成は雛を解放した。そして何事もなかったかのように己の口の端についたものを舌で拭った。

「やはり甘いな」

ずいぶんと濃厚な接吻の感想は、不機嫌そうにこぼされる。三成は、口直しのつもりか、あふれんばかりに湯呑に茶を注ぎ喉へと流しこんだ。

「三成さん、味を確認したかったのでしたら、もうひとつ食べてもよかったのですよ」
「そんなには要らん」
「では、了承を得たうえで実行に移していただけませんか。わたしに心の準備をさせてください」
「どちらにせよいまのように顔を赤くするんだろう」

雛は自分の頬に手を当て、嘆息する。どこでこのような業を覚えてきたのだろうか。ためらいなくやってみせるその根性はどこにあるのだろうか。

「……三成さんでなかったら、今頃警察沙汰ですよ」

けいさつとはなんだ。その質問を無視して、もうひとつその甘ったるいチョコレートを口に運んだ。



弥生にて、静寂





 

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