ヒステリシスの融点


いやまあ、お門違いというか筋違いというか人違いというか何というか……私だってそんなことはわかっている。こんなことを思うのは、「間違い」なんだ。私は彼に対してこんなことを思う資格はない。権利どころか意味だって、ないのに。


「それは、恋だね!一条さん!」


彼女があんまり屈託のない純朴な笑顔でそんなふざけたことを言うものだから、もはやぐうの音も出なかった。杜山さん、それ本気で言ってる?何度も何度もそれだけが仕事かのように縦に頷かれた。冗談だと、言ってほしかったなあ。友達からの恋愛相談に杜山さんは有頂天だ。その熱気から来る世迷いごとじゃ、ないんだもんなあ、まったく。

続けて自信満々にその大きな胸を張りながら「わたしに任せて!だいじょうぶ、きっとうまくいくから!」と、不安な一言。彼女に何か考え……よくない考えがあることは明白だった。それを意地でも止めたかったのだけれど、杜山さんの楽しげできらきらとした両眼に否応なく閉口させられる。私にそんな意地の悪いこと、できるものか。



話は単純ではないのに、それは勝手に独り歩きし始めていた。





***





杜山さんのハッピーでラッキーでラブリーなサプライズは、密室にふたりきりで幽閉するというアンビリーバブルでチープなプロジェクトだった。何年代だ。燐くんは蹴破るかなんて物騒なことを言っている。私はもちろん意図を知っているため、暫時待機を提案した。


気まずい沈黙はお約束、そして彼がおずおずと会話を始めることもまた、定番だった。


「雛は、俺のことあんまり好きじゃねーだろ」


そんなことを言われるなんて、それは予想外。

「どうしてそんなことを訊くのかな……」
「なんとなく、って言ったら、怒るよな」
「すごく怒るよ」
「怒らねーよ、雛は。『ひどい』って目を伏せるだけだ」
「……ひどいな」

そう言って私は目を伏せる。燐くんの声色は真面目で、真っ直ぐで、……何にもふざけてなどいなかった。だから私は目を伏せるしかできない。間違っていないのだから、否定できないのだから。

「雪男に言われたんだよ、ちゃんとはっきりさせてこいって。鬼みてーな顔で『一条さんをどうしたいのか、どうしてほしいのか、何をわかりたいのか、何をわかってほしいのか、話し合って解決しない限り外には出さないから』とさ……だから悪い、この状況は俺のせいなんだよ」


鍵を閉めた後、ふたりで呆れたように笑う姿が目に浮かぶ。なんだ、最初からそのつもりだったのか。全然、望まないことなのに。


燐くんは、再び私の瞳の奥の黒を見据えた。


「それで、雛は俺のこときらいなのか」
「……」



きらい、きらいなんだ、燐くんなんか。だいきらい。私とはまったくちがうから。強いから。



だから、



「きらいだよ、だいっきらい」



言葉にした。わかりやすく、音声にして彼の耳元へと届けた。初めてひとに対してはっきりと嫌悪を伝えた。そんな顔をして、それからそんな表情をすることもわかっていた。だから言ったんだ。だから、言ったのに、


どうして、こんな気持ちになるんだろう、


こんな、かなしくて、くるしくて、つらくて、……心臓を鋭い杭で打たれたように胸が痛んだ。せり上がってくるものは、その傷から滲み出た血液だ。真っ赤で、酸化して黒くなって、私の両頬を罪人のように真っ黒に染め上げるんだ。


「っ、あ、」


でも、そんな、そんな些細な願望でさえも、私の心は拒んだ。瞳からこぼれる雫はどこまでも透明で、流れる血潮とは裏腹に澄み切っていた。留まることを知らないそれは、私の膝を濡らす。生暖かくて身震いした。


私は、こんな気持ちになることなんて、


「きらい、きらいだ、だいきらいなんだ、独りきりでも強い燐くんが、どうしようもなく羨ましくて妬ましくて、だいきらいだ」


こんな気持ちになりたくない。こんなことを言いたくない。でも言わなきゃ、言わなきゃ私は私を許せない。勝手に憎んで勝手に嫌って、挙句には勝手に好きになって、そんな自分勝手でわがままな感情、否定しなくてはならない。私が私であるために、私が独りにならないために。



「独りでも強い燐くんを、独りじゃ弱い私はきらいでいなきゃ、だめなんだよ」



その青く燃える炎を湛えた眼から逃れようと顔を背けた、だけど、その手を引かれる勢いに私は揺れる。


「独りじゃねえ!」


抱きすくめられた、熱く脈打つ胸に、孤独に満ちた私の身体が、彼のあたたかな腕に抱かれた。


あったかい、あったかくて満たされる。氷壁が溶けるように、睫毛に載った涙が落ちた。


「独りじゃねえだろ、雛も、俺も。俺たちは独りじゃない。もうわかってるはずだ。そうだろ?」


彼はあたたかい。あたたかくて、やさしい。


やさしいから、ずっと閉じてきた瞼を開けて、私に光を灯してくれるんだ。


「それでももしお前が独りだって言うつもりなら、」


彼の炎は、確かに私の心をとかしたんだ。


「俺がずっと雛といっしょにいてやる。お前が独りじゃないと認めるまで、ずっとだ」


彼の心は、確かに私の枷をほどいたんだ。


「っ、うん、ありがとう、ありがとう、燐くん、」





ああ、私はもう、





「だいすきだよ、」





独りじゃ、ないんだ。






ヒステリシスの融点





壱万打企画に参加してくださったまふゆさまへ送る。
リクエストありがとうございました。
遅くなって申し訳ありません。もしよろしければ、受け取ってください!
リクエスト:夢主と燐が周りのお膳立てで両片想いから両思いになったら

 

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