71:可逆を見逃すアーテー
意外に目を見開くアマイモンを私はじっと見据える。もうあの目を見られないという恐怖はなくなった。私の頭はすっと冷えていた。冷えて、冷え切っていた。
「答えられないんですか」
「教えてやらないの」
「これは、あなたにとってよほどのものなんですね」
「返して」
「いやです」
その返答は予想済みだった。アマイモンは先ほど私にしたように人形へ鼻を寄せる。オブリビオンは人形のふりをしてむっつり黙っている。私の指示を待っている。私は成り行きを見つめ、そして待機を命令した。
黙っていて。大丈夫、私は、もう平気だ。
「どうもこれは悪魔とはちがうようです。器は悪魔のようにしていますが、中身が違う……これが一番不明ですね。まひる、僕は知りたい。分からないことは要らないんです」
悪魔とは強欲だ。知識に関しても博識でなければならないなんて、疲れそうな生き物。
「あなたが『何』か、これが『何』か、兄上があなたを飼う理由は何か、どうしてあなたの親を殺すよう命令したのか、あなたは犯人が分かっていながら何故何もしないのか、『お友達』を売るあなたの性根は何か。あなたは興味深く、怪しい」
その質問のいずれにも、私は答えられた。お前の期待に応えることができた。
私は人間で、オブリビオンは悪魔で、メフィストさんは異世界の人間というイレギュラー性に興味があって、私を引き込むには両親の怪我という動機が必要で、私が動かないのは……動けないからで、けして『お友達』を売っているのではなくて、……そんなことを包み隠さず言えたらどれだけ楽だろう。楽、かな、話がこじれるだけだろう。
アマイモンはそんなことが知りたいんじゃない。そんな、薄っぺらな言い訳なんか分かったって仕方がない。
「僕はまひるが答えてくれるまで、これもあなたも解放しませんよ」
再びアマイモンはその鋭利な爪先で私の首を掴む。今度は傷つけようとする意思を持って。脅迫に違いないその行動に、私はようやくかとほくそ笑んだ。
それは、私だって同じ。
「私だって、お前が忘れるまで解放してやらない」
オブリビオンを持つアマイモンの手を払い、オブリビオンを解放する。油断していたその手から、黒い人形は容易にすり抜けた。
首に爪が食い込もうと関係ない。血があふれようと関係ない。
私は逃げなくては、ならないのだから。
そして、逃げおおせた私の悪魔へ、指示を出す。
「オブリビオン!」
「何を、」
抵抗するべく首へ伸びてきたもう片方の腕も、掴んで逆に引き寄せた。力が込められ呼吸が難しくなるが、そんなのは障害にもならない。お前の両腕は私が捕らえた。
「アマイモンの『私を疑う記憶』をすべて消してしまって。昼のことや奥村燐のことはそのままでいい。私を怪しむ、私に興味を抱く、私を疑っているというその記憶だけを、消して」
そうだよ、必要なことはそれだけでいい。
アマイモンは何かを理解したように「なるほど」と呟いた。口元の引きつった頬は、私にとって負け惜しみにしか見えない。
「ねえ、アマイモン、記憶というものはとても便利だ。とても曖昧で、とても都合がいい。多少の歪みくらいだったら勝手に自分のいいように解釈して、訂正して、歪みそのものを忘れてしまう。穴が開いたって、そんなの分からなくなるよ」
お前が抱いた私への疑念なんか、知りたがった好奇心なんか、すぐに忘れてしまう。分からないことが嫌なら、分からないことすら忘れてしまえばいい。
暴れる身体を押さえ込もうと首を捕らえた両腕をさらに引き寄せた。ぎゅ、と器官が絞まる。私の意図に気がついたアマイモンは眉を寄せた。
そう、お前に私は殺せない。急所を掴まえている限り、加減を誤れば私は死んでしまう。それは禁止されていることだ。兄に制限されているお前にとって、これは不利な状況だ。それが分かっているから、こうして距離を詰めた。
「消して」
頭にしがみついたオブリビオンの、黒く短い腕が頭頂部に挿し入れられた。物理的ではなく視覚的にそう見えるだけだ。ああして対象の記憶に干渉し、必要な部分だけを取り除く。そうして摘出した記憶は結晶となって抜き取られ、オブリビオンが咀嚼することで回帰不可の消去が成り立つ。
どう、と倒れこんだアマイモンの身体を余計に一発蹴っておく。意味はない、腹いせだ。
さて、オブリビオンへと魔法円を向けた。
「ごめん、虚無界にいて。少し無防備が過ぎた。……また何かあったら、呼んでもいい?」
首肯を返したオブリビオンは従順に魔法円の向こうへと消える。滞りなく、アマイモンの記憶の消去に成功した。意識を取り戻したアマイモンの瞳に、あの好奇心の色がないことを視認して再確認した。
ぼんやりとこちらを見やって、首を傾ける。
「ウーン、なんだか腰が痛いんですが」
知らない、と一蹴する。もちろん押さえているその箇所は私が足蹴にした部分だ。ざまあみろ。
それでは帰ります、とアマイモンは立ち上がってドアのほうへと歩みを進めた。しっしっ、さっさと帰れ。という意思を込めて手を振る。
「もう二度と入って来ないで」
「それは無理な相談です。隣人同士仲良くしてください」
「お断りだ」
「それでは」
思いのほか呆気なく扉は閉まった。無抵抗に、無遠慮に、……無感動に。
私は床に崩れ落ちる。冴えていた頭はすでに沸騰しかけていた。鼓動が嫌に早い。
落ち着け、落ち着け、もうあいつはいなくなった。オブリビオンだっていない。記憶だって消したじゃないか。脅威は消え去っただろう。
深呼吸を繰り返し、思い出したかのように痛み始めた首筋を撫でる。
「人間、人間……だよね、私は……」
―――確かに、人間だ。人間なんだ。
ゆっくり眼下へと掌を下ろす。
―――じゃあ、私を人間ではなくさせている『何か』が……。
ただ肌色ばかりが映る指先に、嗚咽が漏れた。