70:閉鎖を奪うデュスノミア
漫画のヒロインのようなこの状況に、私の心臓はいつもより速く鼓動を刻んでいた。もちろん、プラスな意味などひとつもない。
私は何者か。
私は異世界から来た平凡な女子高生で、人間だ。人間以外のはずがない。だけど、彼は私を何者かと問う。
「私がおかしいのは、その、におい、だけなの?」
「うーん、いいえ、そうではありません」
無抵抗となった私の手首から手を離し、アマイモンは私の首元の包帯に触れる。留め具ではなく半端なところから千切り、包帯は解かれた。ネイガウス先生にわざわざ巻いてもらったのに。所々ににじんだ血が痛々しくて目をそらす。
ほら、やっぱり。と、アマイモンが呟いた。質問する前に、首元のひやりとした冷たさに声がつまった。
「な、んだ、アマイモンの手か」
痛くない。
……あれ、痛くない。痛く、ない?
「もう傷がふさがっているでしょう」
「うそ、だ」
拘束されたまま手首を下して、何とか患部に触れる。そこにはかさついたかさぶたがあるばかりで、血なんて、一滴も流れてはいなかった。噛まれたのは午前のことで、それからたったの数時間しか経過していないのに?
もう傷口がふさがり、血も止まっているなんて、そんなの、
「おかしいでしょう?」
「っ、そ、れは、そうだけど、」
「さあ、答えてください。まひるは『何』ですか?」
何、だなんて、
「……少なくとも、人間だよ」
「へえ……」
その懐疑的な表情に、わずかに怯える。それを隠すように手首の拘束を解くよう強要した。
もうあきらめてしまえ。このことを隠せなんて、一言も言われていないんだから。誰から……、自分だ、自分で勝手に決めていただけ。だから、言ったって、大丈夫。
上体を起こしてアマイモンの手によって解かれていくネクタイを見つめる。
「私は、この世界の人間じゃない。私の世界に悪魔なんてものはいなかったし、もちろん祓魔師だってあんなに立派な組織を立ち上げられるほど信憑性もなかった。オカルトだって、フィクションだって、そういうことにされていた。それが当たり前の平凡な世界に生きていたんだ。でも、悪魔も祓魔師もいる、こんなわけの分からない世界に突然連れて来られて、両親が殺されかけて、その仇とも呼ぶべき存在の世話になっていて、仇はどちらも悪魔で、傷の治りが速いだの指摘されて、そんな、そんな悩める非凡な人間だよ。怪我の治癒の速さについてはよく分からない。私が把握している身の上は、この程度だよ」
赤くなった手首を撫でていると、相手の返答は予想外にもただ「へえ、そうなんですか」という端的なものだけだった。私の中では意を決した暴露のつもりだったのに、この返答はひどい。どうせなら馬鹿にするか驚くか、何らかの反応がほしかった。
「言っておくけれど、こんな馬鹿げた話、メフィストさんくらいしか知らないんだから誰かに話したり詮索したりはしないで。そのくらいのことなら、お前みたいな悪魔でもできるでしょ」
「小馬鹿にした態度が気に食わないですが、概ね了解しました。はあ、兄上がわざわざあなたみたいなものをわざわざ飼っているのには、そういった事情があるんですね」
「飼われた覚えはない」
ようやくアマイモンから抜け出し、腰を上げる。下腹部にずしりとした痛みを感じた。そういえば、この悪魔に腹を殴られたのだったか。忌々しげに奴を睨むも、あまり効果はないようだ。
「満足したなら、早く出てって」
「いいえ、まだ」
「ツケが多すぎる。割に合わない」
「ボクは気になったことをすぐに片づけてしまいたいんです」
そうして、彼は、掴む。
「これも、あなたが連れて来たんですか?」
黒いうさぎのぬいぐるみの腕を。私の秘密の引き金を。
オブリビオンの、腕を。
「さあ、答えてください。これが最後の質問です」
私の頭は、驚くほどに冴えていた。
「……はは、いやだよ」
もうお前には何も教えてやらない。
何も、教わらない。