67:死なない猫




「ただいま、っと」

メフィストさんの部屋へは行かず、自分の部屋へ真っ先に向かった。理由は、今日の買い物の仔細を訊かれたくなかったからだ。なにも知らないひとからすればなんの変哲もない平凡な買い物も、事情を知っているひとからすれば一度に意味深なものへと変化する。
私のこの幼稚で無為で、それでも私の中では価値のある“これ”を、メフィストさんに揶揄されたくはなかった。私にすこしでも知恵や勇気や希望を与えてくれたら、とそんな軽い願望から購入しただけの代物だ。
だけど、それでも、……無駄だと告げられることは避けたかった。


あのひとの中にあるであろう数少ない(そもそも人間ではないのだから、この表現はおかしいけれども)人情と常識に賭け、私は幼少期を見習って引き出しを引いた。ろくに私物も入っていないその奥のほうに、三冊のそれを並べる。
これを読むのは、いまでなくてもいいだろう。もう日が暮れかけている。一度閉め、再び開けて、一見それらが目に入らないことを確認すると、引き出しを閉めて鍵をかけた。



これで大丈夫だ、ほっと、息を漏らそうとした。



「なにをしているんですか」
「……、い、いま、心臓、止まったかと思った」


その息は私の喉へと踵を返し、むせ返ってしまう。いつのまに、いつのまに、と同じ台詞を何度も繰り返しながら、振り返った。
アマイモンが、相変わらずの能面で突っ立ている。―――私の、真後ろに。


まったく気配がしなかった。幽霊よりも存在感がないんじゃないか、と余計なことが脳内をよぎるくらいには錯乱させられている。
それもそうだ、だって、こいつはノックもなにもしていない。無断で入って来やがったんだ。


アマイモンは、こてんと首を傾けた。


「心臓が止まるとニンゲンは死ぬはずです。それでも生きているということは、まひるは何者ですか?」
「ジョークだよ……きちんと動いている。それより、アマイモン……って、あれ、私の名前、」
「兄上から訊きました」
「ああ、そうか。それで、なんで部屋に入ってきたの」
「鍵が開いていたからです」
「ノックをするとか呼んでみるとかさあ」
「メンドクサイことはしたくありません」


ぶっ飛ばすぞ、と淑女にあるまじき暴言を吐いて、アマイモンから少し距離を取った。
そもそも悪魔に人間の常識が通用するとは思っていないけれど、モラルくらいは“兄上”から教わっておいてほしい。これから屋敷をウロチョロするつもりなら、なおさらだ。



「……、」



アマイモンに、見られたか。



この兄弟の口の軽さは身に沁みて理解しているつもりだ。兄のほうはおそらく意図して選択してその内容を公表しているが、弟のほうは何の思索もないだろう。「まひるが何かを隠していましたよ」とか、そんな感じで何気なく滑らすにちがいない。
それが真っ先にこの引き出しに行き着けば、多少の不愉快や屈辱を味わうが大問題に発展することはない。しかし、それがあの……枕元へと達してしまえば、私は自分の所持するとっておきがなくなってしまう。


「いま、まひるがしていたことについてですか?」


私の視線の揺れ動きを見つめていたのだろう、アマイモンが私よりも先にその話題を取り上げた。
私は黙したままで、肯定も否定もしない。

「心配しなくても兄上には言いません。言われたら困るようなので」
「っ、言えばいいのに、なんでそこで無駄な気遣いを見せるの」
「言って、それでボクになにか良いことがあるんですか?」


ぐっと、悔しさにも似た感情が湧き上がってきて奥歯を噛み締めた。なにも考えていないわけではないようだ。それに、メフィストさんの忠実な従者というわけでもない。



―――彼らは、飽くまで、悪魔で、利己的にして快楽主義者なのだ。



「ボクにとっては言わないほうが、良いことがあります」
「良いこと、って」
「まひるに貸しをつくることができます」


アマイモンはそう言うと、少しだけほんとうにわずかに、顔を歪めた。その狂気を孕んだ眼は、かのピエロによく似ていた。頭のすみの何処かで、「ああ、やっぱり兄弟なんだな」なんて感心する。それどころではないのに。


冷たい汗が首筋を伝い、背中へと落ちる。


「たいしたことではありません。ボクが知りたいことについて教えてほしいんです」


自分の部屋のように歩みを進めるアマイモンは、私のベッドへ到着するとそれに腰を沈めた。声を上げそうになる。そこには、……己の無防備さと無用心さに後悔ばかりが耳をつく。




そして、あの明るい緑の両眼は、ゆっくりと枕元へ、黒いうさぎのぬいぐるみへ、―――オブリビオンへと、向けられた。




「そうですね、……まずは、奥村燐のことから教えてください」




それは、聞き慣れた、聞き慣れすぎてうんざりするような、彼の名前だった。
私はなんとか声を絞り出して了承したとだけ伝えた。頭の中では、けたたましい警報音が鳴り響いている。





アマイモンは、きっと誰よりも恐ろしい存在になるだろう。彼の子どものような好奇心の強さは、悪魔染みた純真無垢さは、私の暗がりへ眩いまでの光を向けるにちがいない。隠しておきたいことも気付きたくないことも、すべてが明るみへと引きずり出されてしまう。まるで首に縄をかけられた心地だ。





そっと懐に手を伸ばし、その中の冷たい温度を確認した。


mae ato
modoru