65:×に気付けばゲームオーバー
「……なにがあったんですか」
「子どもの喧嘩だ」
メフィストさんの部屋に着いて、第一声目にそう言われた。眉を寄せて訝しげな表情をしている。
まあ、そう思うのも無理はない。
アマイモンとネイガウス先生は特にこれといって言及することはないが、私だけは泥まみれで血まみれだからだ。
そうだ、早く服を洗わないと。あと、手当ても。
「じゃあ、私はこれで失礼します」
「待ちなさい」
急いで部屋から離れようとしたら、メフィストさんが引き止めた。なかなかに機嫌の悪い私は、無言でメフィストさんを睨み上げる。
わかりやすく嫌悪感をむき出しにしている私に、溜息が返された。それから、指が一度鳴らされる。
直後に現れたのは、救急セットだった。
「ネイガウス、彼女に手当てを。まひるさんは、手当てが済んだらこれを返しに来てください」
確実に返す必要のない救急セットを、押しつけるように渡してくるメフィストさん。
……おそらく私がちゃんと手当てを受けたか確認するつもりなんだろう。そんなことをしなくてもいいのに。
しかし、機嫌が悪いとはいえ聞き分けのない子どもになるつもりはない。
「……、わかりました」
その白い箱を受け取り、ネイガウス先生に連れられて部屋を出た。
ネイガウス先生とは、保健室みたいな……治療時によくいっしょにいる気がします。
首元の血をガーゼで拭いているときにそう呟くと、ネイガウス先生の手がすこしだけ止まった。それはわずかな間だった。
「俺がいなかったら死んでいたかもしれないのに、よくそんな余裕があるな」
「……死にそうになったことがないので」
「そういう問題じゃない」
「ま、まあ、ほら、ネイガウス先生のおかげで助かりましたから。あ、ありがとうございました」
「そういう問題でもない」
中途半端な笑みを返しつつ、その傷だらけの手から目を逸らした。まだ、燐くんとの一件の傷は癒えていないようで、じんわりと血がにじんでいる。
「私がしたことは大体は理不尽なことなので……、あそこで殺されてしまってもしかたのないことなんです。アマイモンが仕返しをするのは理にかなっています。だから、死んでしまっても、しかたのないことだったんです」
結局死ななかったので結果オーライです、と冗談めかしく言う。
私がアマイモンを殴るのは間違っている行為なのだ。
アマイモンはただ兄の命令に従って、私の両親を殺そうとした。命令を従順に遂行しようとしただけだ。言いかえれば私は凶器であるナイフに対して怨恨を滾らせているようなものだ。
凶器であるナイフに怨恨を滾らせているなんて、おかしな話だ。それが自我のある存在だというだけで。
そんなアマイモンに対して恨みを抱くのは、彼にとっては不本意なことだろう。
だから、私の行動は間違っている。そもそも、復讐をすること自体が、間違っているのだけれど。
「なにをされたのか知らないが、そうやって“仕返し”をしようとする考え方は辛くないのか」
「……えっ、?」
思わずことばを失った。
―――辛い?“仕返し”……復讐が?
「おまえのことはほとんど知らないが、いままでの行動を見るかぎりそうやって“仕返し”に執着するようなやつとは思えないぞ」
どきり、と心臓が跳ねる。
あ、どうしよう、だめだ、このひとは、
「辛く、なんか、ありませんよ」
絞り出すように声を紡ぐ。
それ以外なんと喋ったらいいかわからなかった。
―――まるで、自分に言い訳するようだ。
ネイガウス先生は私の表情をじっと見つめていた。
「なら、いい。手当ては済んだ。早く着替えて来い」
「……はい。ありがとうございました」
早口で礼を言い、逃げるようにその部屋から飛び出した。しばらく廊下を駆け、角を曲がってしまうと膝の力が抜けた。
へなへなとそこに座り込み、顔を両手で覆う。
「……、思い出したく、ないんだよ」
私にとって、それはいちばん恐ろしいことだった。