64:一歩、退行


いきなり現れた私に反応できないでいるアマイモンは、目を見張って私を見ていた。

私のこぶしが、アマイモンの左頬にめりこむ。

その衝撃で、アマイモンは再び学園町の外へと吹き飛ばされた。鈍い音が響き渡る。
メフィストさんに鍛え上げられた成果が、こんなところで発揮されるとは。皮肉だ。

地面への着地が失敗し、私はどしゃりと崩れ落ちた。

「杉!何をした!」
「な、なぐった、だけですよ」

これで、すこしはすっきりした。一発殴ってやると、決めていたから。

どこか虚しさを覚える心に疑問を感じながらも、乾いた笑みを漏らす。



―――休息も束の間、目の前が真っ暗になった。



伸びてきた腕が私の喉を押さえ、そのまま倒れ込む。背中の衝撃と首の息苦しさに、くぐもった声が喉からこぼれた。

犯人の顔を見ると、案の定アマイモンだった。その顔はすこしばかり焼け爛れていまだに白い煙が上がっている。
はは、ざまあみろ。

「あらかじめ聖水で手を濡らしておくとは、考えましたね」
「当然の報いだ」
「アナタはたしか、兄上の命令で行った家のこどもでしょう」
「っ、おぼえていたんだ」

アマイモンがあのことを覚えていたとは、意外だった。あんなに簡単に主犯を漏らすやつだったからすっかり忘れてしまっているものかと。

会話の途中で顔は完治してしまい、元通りになってしまっている。
たいしたダメージにはならなかったか、くやしいな。

「兄上に叱られましたから。……ですが、それが原因でこんなことをしたなら筋違いだ。ボクは兄上の命令に従っただけなのに」
「その兄上にできないから逆恨みでね」
「殴られ損です。ボクも殴らせてください。結構痛かったんですよ」

そう言って、アマイモンは手を振りかざした。

そんな風に考えるのも無理はない。私がしたことはおおよそ理不尽な行いだ。

私は歯をくいしばり、来るべき痛みに耐えられるよう目をきつく閉じた。









しかし、なかなか殴ってこない。

恐る恐る片目を開けると、振り上げたアマイモンの手首を、ネイガウス先生がつかんでいた。ギリギリと、軋むような音がしている。

「……ネイガウス、邪魔です」
「やめておけ。杉に怪我をさせると、メフィストがうるさい」
「兄上が、……」

ネイガウス先生のことばを理解したのか(メフィストさんがうるさいってどういうことだろう)、アマイモンはつまらなさそうに口を尖らせて腕を下ろした。

よかった、どうやら殴られるのは回避できた。アマイモンのような悪魔に殴られるなんて、生半可な怪我では済まないだろう。




ほっと息を吐いていると、突然首に鋭い痛みが走った。



「いッ、っつ、」
「じゃあ、これで勘弁しましょう」

ぽたぽたと、服に赤い染みができる。アマイモンは、口についた血を舌で舐めとっていた。



―――こ、こいつ、首を咬みやがった。



「このッ、」
「杉、やめろ」

再度起き上がって反撃しようとする私を、ネイガウス先生が引き留めた。
私が殴られずに済んだのは、ネイガウス先生のおかげだ。だから、逆らうわけにも……、

「うっ、……覚えてろ」
「それはこっちの台詞ですよ」

皮膚が裂けているため、空気が冷たく突き刺すように痛い。

アマイモンが私の上から下りると、すぐに立ちあがって首筋を押さえた。血は出ているが、それほど深い傷でもなさそうだ。
あーあ、また服汚しちゃったな……早く、洗わないと。


ネイガウス先生は早速結界の修復にかかっていた。アマイモンは何事もなかったかのように棒キャンディーをくわえている。

「それより、アナタはどうやって身を隠していたのかな。なにもないところから現れたように見えました」
「敵に手の内をさらすほどばかじゃないんだけど。その残念な脳みそで考えてみれば」
「やっぱり殴らせてください」
「やめろ、杉もあおるんじゃない」
「……ちっ」

渋々ながらアマイモンへの敵対意識を抑えると、呆れ交じりの溜息と同時に白いハンカチが渡された。う、ますます罪悪感が……。

思わず俯いてしまう。

「す、すみません、ネイガウス先生」
「アマイモンになにをされたんだ」
「えっと、ちょっとまあ、……」

ごにょごにょとはぐらかすと、ネイガウス先生は再び息を吐いてその手を私の頭に載せた。
ネイガウス先生、ほんとうにおとうさんみたいだ。

……どうしよう、泣きそうになる。

「ネイガウス、早く行かないと兄上がうるさくなります」





そんなおセンチな空気をぶち壊したのは、まあ、この隣にいるアマイモンなわけで。





「空気読めよこのクリスマスツリー」
「意味不明なことを言わないでください」




mae ato
modoru