63:群青より邂逅
合格通知と、それからメフィストさんなりの豪華なごちそうをいただいてから一夜明けた。
「あつい、あつすぎる……」
照りつける太陽にじんわりと浮かぶ汗。日本の夏は湿度が高い、とよく言われるけれど、私は海外に行ったことがないから比較はできない。
だけど、比較対象がなくても分かる。日本の夏はジメジメしている。
祓魔塾に空調設備がないのなら納得するだろう。あんなボロボロの建物に最新型のクーラーがあるなんて期待はしていない。
しかし、この邸宅は別だ。豪華絢爛な――というのはかなりの比喩だが――こんな無駄に広い……ゆとりのある家屋の廊下に、なぜクーラーが効いていない。ホテルのように廊下にまでもクーラーを設置してしまうくらいの金はあるはずだ。
そのような議論をメフィストさんにもちかけたところ、笑顔で「エコです」と返された。生まれてこのかたエコロジーについて考えたこともなさそうな悪魔に真っ当な回答をされた。
なんだか私が悪いみたいじゃないか。ただフィギュアに回すお金があるなら廊下にも空調をつけては?という提案をしようと思っただけなのに。
ぶつくさと文句を呟いていると、全身きちっとした燕尾服に身を包んだ執事さんとすれちがった。
……きっとあのひとたちは人間じゃないんだ。私の感覚が狂っているんじゃないんだ。きっとそうだ。
もうひとたび「あつい」と呻くと、「あつそうだな」という返事があった。
「ネイガウス先生、こんにちは」
夏で、さらにこの暑さだというのに血色の悪いネイガウス先生に出会った。もう祓魔師のコートは着ていない。
まったく汗のかいていないようすのネイガウス先生を見るかぎり、悪魔関係者の人間離れは甚だしいようだ。
「杉、試験に向けての特訓とやらはどうしたんだ」
「もうその話知っているんですね……。今日はお休みです、メフィストさんに私用があるらしくって」
「そうか、それでも暗記をする気はあるようだな」
私の手に握られた分厚い本に注がれた視線に、苦笑いを浮かべる。
いくら休暇をもらったとはいえ、あまりのんびりとしてはいられない。記憶はいつか戻るとわかったけれど、それがいつになるかはわからないのだ。
それなら、上一級祓魔師になることも並行して目指すべきだ。メフィストさんがどうやって私の記憶を戻してくれるのかは、まったく推測できない。だけど、無責任にあんなことを言うとも思えないから。
だから、いまの私にできることを、全部まるっとやるべきなんだ。
「先生はどちらへ?」
「ああ、おそらくそのメフィストの私用と関係あるんだが、アマイモンを迎えに行くんだ」
一瞬、周りの音が、消えた。蝉の声も、車の走行音も、窓の軋む音も。
…………え?
「はッ、えっ、ア、アマイモン、いっいま、アマイモンって、言いましたか……?」
「言ったが、それがどうかしたのか?」
私の剣幕にネイガウス先生は少しだけ引いていた。でも、それどころじゃない。
アマイモン。
忘れもしない、その名前。聞いただけで、あの日の惨状が脳裏に浮かぶ。両親をあんな目にした、悪魔。
そいつが、ここに来るのか。
「メフィストから聞いていないのか?アマイモンは、」
「知っています。あの、ネイガウス先生、そのお迎えについて行ってもいいですか」
ただならぬようすにネイガウス先生も察してくれたようだ。特に追究することもなく、しばらく顎に手を当ててなにかを悩み、挙句に口を開いた。
「俺は構わないが、メフィストの許可をとらなくていいのか」
「そんなものは必要ありません」
いちいち行動を制限される筋合いはない。メフィストさんの要求を呑むか否かは私の自由意思だ。
ここでネイガウス先生に出会ったことは運が良かった。これは好機だ。こんな好機を逃すなんて、ありえない。
「すこし待っていていただけますか。用意を、したくて」
用意?という表情をするネイガウス先生を置いて、手ごろなドアの鍵穴に鍵を挿した。
自室につなげて、必要なものをポケットに詰め込む。持っていた分厚い書は、迷いなく机に置いた。
「何をするつもりだ」
「何も、しません……。うそです。何かします、アマイモンに」
「やめておけ。あいつは強いぞ」
「承知の上です。すみません、ネイガウス先生に迷惑はかけません」
ネイガウス先生は呆れたように溜息を吐いて、私に背を向けた。
「……、俺は知らないぞ」
「はい。じゃあ、私は勝手について行った、ということにします」
それ以上何も言わずに歩き出したところ、快諾してくれたみたいだ。よかった。
私はポケットから簡易魔法円の描かれた紙を取り出す。そして、「クリアー」と小声で囁いた。
ずるりと布の端を現したのは、ネイガウス先生との一件で創った透明マントの悪魔だ。某魔法学校の某魔法使いの少年が使用するそれと同様のつくりをしている。
つまりは覆われた物質を周囲の景色と同化させる能力があるのだ。見えなくなるだけでそこに存在はするため、触ったりぶつかったりすれば容易にバレてしまう。
だが、身を隠すには十分だ。そういう風に創った。ちなみに、名前はオブリビオンに紹介するときについでにつけた。呼ぶときに楽なように。
クリアーに身を包み、ポケットの中身ももう一度確認して、準備は完了だ。
先を歩く背中を追いかけるべく、忍び足で歩き始めた。
ネイガウス先生は鍵を使い、外壁のそばにまで出てきた。「工事中のため進入禁止」の立て札を無視して、さらに外壁へと近付く。
私もその立て札の横を通り過ぎると、ぞわりと何かが変わった気がした。景色や温度ではなく、―――空気が変わったような感覚。
ネイガウス先生が器具でマンホールを開けているのを見て、その裏に張ってある訝しげなお札をはがしているのを見て、ようやく合点がいった。
そうか、この学園町はメフィストさんの力で中級以上の悪魔が入って来られないように結界が張ってあるんだっけ。さっき空気が変わったような気分がしたのも、おそらくこの周囲だけ結界が弱められているんだ。
アマイモンが、この地に侵入できるように。
ネイガウス先生がお札をはがして後すこしの手順を踏めば、ここの結界はアマイモンが侵入できるくらいには弱まるのだろう。
後ほど本で得た知識だが、アマイモンは“八候王”という虚無界の権力者のひとりであり、“地の王”という呼び名を持つ。緑男や囀石なんかが彼の眷属の代表例だ。
簡単に言えば、おそらく魔神の次に強い存在となるのだろう。
―――そんな悪魔を敵に回そうとする行為を、私はいまからやろうとしている。
ひどい怪我をするかもしれない。殺されるかもしれない。でも、そう簡単には殺されてたまるか。
死にたくない。けど、なにもしないのはいやだ。いまの私ができることを、……やるんだ。
ぐっとこぶしを握りしめ、ネイガウス先生のようすをそばの茂みから窺う。
「……開いたぞ」
ネイガウス先生が外壁に取り付けられたドアを開く。
そこから現れたのは、忌まわしき緑のトンガリ頭と、あのピエロによく似た顔。
「アマイモンッ!」
私はクリアーをいっきに取り払い、つくったこぶしを振りかざした。