62:次のページへの約束
オブリビオンとの一騒動を終え、ちょうどよい頃合にメフィストさんの部屋へと向かった。それなりに早い時間だというのに、メフィストさんは案の定デスクで執務をこなしていた。
「おはようございます」
「おや、お早いんですね。なにかいいことでもありましたか?」
「昨晩散々な目に遭っておいて、よく眠れると思ったんですか」
「図太いまひるさんならなにがあろうと熟睡しそうなものですが」
「繊細でもありませんが図太くもありませんよ」
「ベッドから落下しても平然としているくらいには図太いでしょう」
「そのことを掘り返さないでください!」
ケラケラと悪魔の嘲笑と、それから朝の挨拶をいただく。この英国紳士はどこまでも律儀だ。
荒んだ心を清めるような澄んだミントティーの香りを楽しみながら、ソファーに深く腰掛ける。
ああ、そうだ。と、思い出したかのようにメフィストさんは口を開いた。
「朝食はあまり食べ過ぎないことをお勧めしますよ」
「……まだその話続けますか」
「そんな気は少しもなかったのですが、そう思ってしまうくらい気にしているんですか?」
「じゃあなんだって言うんですか」
「合格祝いにスペシャルなごちそうをしてさしあげようと思いまして」
合格祝いに、スペシャルなごちそう。
片目を閉じるメフィストさんに、私はただ怪訝な眼差ししか送ることができなかった。さらりと発表されてしまった合格通知よりも、その後の言葉に注意が向く。
「塾生一同に、ですか」
「もちろん」
「……、単価98円とか、ごちそうだなんて認めませんからね!」
「だれがカップラーメンをおごると言いましたか」
心外です!と憤慨されるが、こっちのほうが心外であり意外である。日ごろの行いを見直してほしい。
「まひるさんだけならまだしも、塾生にごちそうするんですよ?お金の出しどころは間違えません」
「私ならまだしも、という発言の出しどころは間違えるんですね」
「わざとです」
朝からたいへんな不愉快を押しつけてくるほど、メフィストさんは快調のようだった。
「はあ、それで、結局何をごちそうしていただけるんですか」
「それは後でのお楽しみということで」
そんなことだろうとは思っていた。これ以上追及することも無意味に感じて、諦めて紅茶を啜る。
「あ、そういえば、みんな合格していたんですね」
ごちそうのことばかりを気にしていたが(食い意地を張っているわけではない)、塾生一同に奢るということは全員が合格している、ということだ。
しかし、あの候補生認定試験を思い返してみると、ほんとうに試験に参加していたのか疑いたくなるようなひともいる。彼らも合格と見なされたのか。
「ええ、そうです。あの戦闘のみが候補生認定試験ということではありませんから」
「合宿そのものが試験、ですか」
「あなたが疑っている方々も、隠れたところで貢献していたのかもしれませんよ」
率直に言えば、それは山田くんや宝くんのことを指していた。彼らは祓魔塾に通い始めてから以降、これっぽっちも活躍のさまを見せたことがない。
私が気付いていないだけなのかもしれないが、少なくとも合宿中もまるで息を潜めているかのようにひっそりと過ごしていた。
山田くんは常にフードを深く被っていて、宝くんは常に眠そうな表情をしていて、顔色ひとつ窺わせない。
ほんとうに何者なんだろうか。
「心配せずとも、そのうち何者かわかる日が来ますよ」
「別に無理強いして知りたいわけじゃないですけど、なんとなく強そうだなって」
じっと、なにか喋ってくれないだろうかという目でメフィストさんを見る。メフィストさんは困ったように眉を下げた。
「申し訳ありませんが、生徒の個人情報を公表するわけにはいきません。そんなことをしては生徒のプライバシーにかかわります」
「昨日プライバシー完全無視の資料を寄こしたじゃないですか……」
「おや、そうでしたか?」
下手だとか微妙だとかそういう域を越えたとぼけ方をされてしまえば、もはや訊く気力でさえ消え失せた。
そもそも彼らにそこまでの興味関心はない。祓魔塾にはキャラクターの濃い面々が勢ぞろいだ。ああいうひとたちがいても、別段不思議ではないだろう。
とにもかくにも、塾生はみな試験に合格したのだ。それで満足だ。
私自身も祓魔師への階段を一歩一歩と着実に上っていっている。
……候補生、か。
「候補生ってことは祓魔師になるための試験を受けられる、ということですか」
「その通りですよ」
「は、早いですね」
「そうは言っても試験自体はまだずいぶんと先の話ですし、なにより候補生になったからと言ってストレートに合格できるものではありません」
一般的な学校受験と同じですよ、とひどく嫌な例を出される。試験と名のつくものへの嫌悪感は、どんな学生でも等しく存在するものだ。
祓魔師ならば、今回のように実戦的な試験もあるにちがいない。これじゃあ、怠けていられないなあ。
「ご心配なく、これからは祓魔師認定試験に向けて今まで以上に厳しくしますから」
「えっ」
「ネイガウスもついているんです。最低でも下一級くらいは取ってもらわないと、教師の名折れですよ」
「ちょ、まだ、そんな」
「早速カリキュラムを変更してみましたから、ご確認を」
了承するか迷う余地も与えてもらえず、額に一枚のプリントが押しつけられた。明らかに手書きのそれは、簡潔にまとめられた一週間のスケジュールだった。―――鍛錬の。
分刻みに記入されているほど詳細に練られたその過密スケジュールを、私は恐る恐る目を落とした。
「…………」
って、
「どっどこの軍隊の訓練ですかこれは!受験生も血反吐を吐くようなスケジュールじゃないですか!」
「受験生は血反吐を吐いてナンボ、って言いません?」
「言いません!」
「血反吐でも弱音でも好きに吐いてくださってかまいませんよ。掃除するのはまひるさんですから」
「鬼畜!ドエス!ひとでなし!悪魔!」
「それ、まひるさんに対して『人間』と言っていることと同じだとわかっていますか」
「わかってますよ、うっ、スパルタ教師め!」
とは言っても、教鞭をとってくれる奇特な教員はこの悪魔しかいないのだ。このひとでなしにすがるしかないのだ。このうえなく不服で不満で不愉快だけど!
「覚悟、しておいてくださいね」
このうえなく愉しげなメフィストさんに、私はその呪いの紙を握りしめて敬礼のポーズをとる。
ちくしょう、こうなったら、
「がんばりますよ!さっさと上級祓魔師になってやるんですから!そのふかふかな椅子の上で呑気にあぐらでもかいててください!」
そのことばは、宣戦布告……には程遠い強がりだった。