61:忘る者
「あ、そうだ」
ベッドに転がった拍子に手元へと飛び跳ねてきたオブリビオンを見て、私はある思いつきに至った。
「ねえ、オブリビオン」
私が呼びかけると、オブリビオンの瞳に光が宿る。ぬいぐるみからひとつの生き物になって、こてんと首をかしげた。
「私がオブリビオンを創った理由はメフィストさんから私の記憶を取り戻すためなんだけど……どうかな、出来そう?」
あの日――魔印の授業があった日、それがオブリビオンを創った日だった。つまり、私が初めて悪魔を創った日だ。
その日、私はオブリビオンがいたらいいのに、と授業中に考えた。それに応えるようにオブリビオンはあやふやな実体を持って魔法円から飛び出そうとした。結局私が手で押さえつけちゃって、ちゃんと出てくることは出来なかったのだけど。
いままでうっかり放置していたけど、本来オブリビオンはそのために創ったんだ。
ずいぶんとかわいらしい容姿となったその悪魔は、ゆっくりと口を開く。
<メフィストさまは 悪魔なので わたしが 近付けば 気付かれる でしょう>
「げ、それは困る……」
<記憶を 奪おうと すると わたしの 存在が 明らかに なります>
「さらに困ることになる……」
上手に喋るようになったねー、とこどもを褒めるようにオブリビオンの頭を撫でた。オブリビオンの表情はちっとも変わらない。
「やっぱりだめかー、なんとなくわかっていたんだけど、しかたないね」
落胆したのかと言われれば、もちろん落胆した。オブリビオンに頼めば、きっと記憶を取り戻そうとしてくれるだろう。
だけど、そのせいでオブリビオンの存在、すなわち私のこの力のことを知られてしまうのは面倒だし、オブリビオンが怪我でもしたら大変だ。
それに、とオブリビオンが続ける。
<メフィストさまは まひるさまの 記憶を 持っていません>
……え?
「は、えっ、ちょっと、いま、なんて」
<メフィストさまは まひるさまの 記憶を 持っていません>
「なにそれ、どういうこ、とッ、うわあ!」
動揺するあまり足が毛布に絡まった。そのまま、私はベッドから落下する。もちろん、どたーん、とひどい音がした。
「ううっ……」
体重は平均体重を下回っていたはずだ。なんのために文明の利器を使用して検索したと思っているんだ。
だというのに、この屋敷中に響かんばかりの音……ふ、太ったのかなあ。
「……オブリビオン、私って太った?」
<まひるさまの 体重は 身長に対して 平均値を 下回っております>
「う、うん……」
<わたしは まひるさまの 以前の 体重を 知りません>
「そうだよね」
<しかし わたしが 創られたときの 体重と 比較すると ふ、>
「あー!もういい!やめて!やっぱり聞きたくない!」
しゃちほこの姿勢で耳をふさぐ。オブリビオンは私の指示通りぴったりと口を閉じてくれた。
手を耳から放すと、ノックの音が聞こえてきた。
「まひるさん、早朝からなにを騒いでいるんですか」
「げっ、メフィストさん、……なんでもありません」
「さっきの音は、もしかしてベッドから落ちたのでは?寝ぼけてベッドから落ちていいのはドジっ子の幼女だけですよ」
「気持ちの悪いこと言わないでください!というか、なんでわかったんですか」
「あんな屋敷中に響きそうな音、わかりますよ」
馬鹿にするような、いや馬鹿にしている声音に、顔が赤くなる。
こんな朝早くから起きているメフィストさんが悪い。そんなに早起きして何をするつもりなんだ。ゲームで夜更かししているならもっと遅く起きればいいのに!
「間食はほどほどに」
「してません!」
あのむかつく高笑いが完全に遠のいてから、しゃちほこの体勢から起き上がった。
ふう、よかった、ドア開けられなくて。
「……そ、それで、オブリビオン、どういうことなの?」
メフィストさんが、私の記憶を持っていないって。
「それって、私、最初から騙されていたってこと?私は、異世界の人間なんかじゃないってことなの?」
<否定 まひるさまは たしかに この世界の 人間では ありません>
「それじゃあ、」
<まひるさまは もとの世界の 記憶が ありません
―――その記憶を 忘れているだけです>
忘れている、だけ。
もとの世界の記憶はない。どんなに思い出そうとしても、思い出せない。でもそれはメフィストさんが記憶を「持っている」からではなくて、私が忘れているから……?
「記憶喪失、ということ?」
<故意に 起こされた 記憶の 忘却です>
「故意に……、メフィストさんが、忘れさせたんだ」
<肯定>
そうか。メフィストさんは記憶を「持って」はいない。忘れさせはしたけれど。
だから、私がメフィストさんから記憶を取り戻すことは、不可能なことなんだ。当の本人が持っていないのだから。
たとえメフィストさんから私の記憶を引きずりだしたところで、それは私自身の記憶ではない。
私の今までの経験を、メフィストさんが客観的に見たものになるんだ。
私自身の記憶は、ちゃんと私が持っている。
<故意による 記憶の忘却は 記憶喪失と 同じものです 徐々に 記憶は 思い出されつつ あります>
「記憶を消失したわけではないから、ちゃんと思い出せるの?」
<肯定>
「そうなんだ、じゃあ、私、思い出してきてるんだ」
なんだか、ほっとした。ほっとして、再びベッドへとダイブした。
私は記憶を忘れているだけ。だから、ちゃんと思い出せる。自分の力で、思い出すことが出来るんだ。
記憶喪失のひとのように、ふとした瞬間に全部戻ってきたりいつの間にか全部思い出していたり、そんなことがあるかもしれない。
もしかすると、いまこうした瞬間にも何か思い出しているのかもしれない。
「ようし、なんだかやる気が出てきた!ありがとう、オブリビオン」
ぐりぐりと頭を撫で回しても、やっぱりオブリビオンの表情は何も変わらない。だけど、満足満足。
そのまま、私はポケットから魔法円を三枚取り出した。
「ねえ、オブリビオン、実は仲間が増えたんだよ。紹介するね」