59:存在と非存在の門







もはや呆れて苦笑と溜息しかこぼれてこない。それと、疲労も相まってソファにぼすんと沈みこんだ。「あー」と低い声でうめく。

「そんな簡単に異世界への門なんて開けていいものなんでしょうか。もっとしっかり閂でもかけておかないと、私みたいな遭難者が増えてしまいますよ」
「そうですねえ。―――誰かが、閂を開けたのでは?」

私のひとりごとに、メフィストさんは親切にも返答してくれた。ついでにお茶まで出してくれる。
いつも紳士だけれど、今日はずいぶんとサービスがいい。

「開けたにしても、柔な閂ですね。ただの人間に開けられるほどなんて」
「人間が開けたとは限らないでしょう。それに、その“超常現象”が起こったためにゆるくなっていたのかもしれません」
「ああ、そういうことなら……納得はしませんけど!」

せっかくもらった書類を机の上に放り投げ、あたたかい紅茶を飲む。おいしくて、ほっとした。
メフィストさんと初めて会ったときの紅茶の味がふとよみがえる。まだあの日からそんなに経っていないはずなのに、もう何か月も過ぎたかのような気がしていた。

「お疲れでしょう、まひるさん。今日はもう休んではどうですか?あなたは気がついていないようですけれど、屍番犬の体液はそんなにやさしいものではありませんよ。
 その資料――まだ必要なのかはわかりませんが――を読むのは明日にすることをお勧めします」

それは、愚直に同意するにはあまりに甘いことばだった。生クリームをボウルいっぱいに食べた気分になる。それを想像して、うげ、と呟いた。

「なんだか、今日はずいぶんとお優しいんですね。なにかいいことでもありましたか?」
「おや、人の親切は素直に受け取るものですよ」
「人じゃないでしょう。……あまりに気味が悪いので」

皮肉を言うと、メフィストさんは心外だとでも言うような表情をつくってみせた。白々しいな。

「ああ、強いて言うなら、少し面白いものが見られたからですかねえ」

胸元のポケットから出てきたのは一枚の写真。そこには、志摩くんの腕に抱かれて何故か頬を赤く染めている私が映っていた。
間違いなく候補生認定試験の屍番犬襲撃のときの写真だ。私が屍番犬に突き飛ばされたところを志摩くんにキャッチしてもらったんだ。

しかし、そんな危機的状況下で私は頬を赤く染めることなんてしない。少女マンガのような、ラブコメのような展開などありえない。
仮に染めていたとしても、それはメフィストさんの望んでいるような桃色な意味ではなく、身体的ダメージのためだ。
屍番犬の体液には発熱を作用させる成分を持つと座学で学ばせたのは誰だと言うんだ。

「赤い実でも弾けたんですか?」
「娘の恋路を冷やかす父親ですか!弾けるわけがないでしょう」

からかうメフィストさんの台詞を一蹴する。
そんながっかりしたような表情をしても私にはどうしようもない。第一、恋愛のことなんて考える暇を与えないような状況だったろうに。

別の事柄で呆れかえっていると、今度は志摩くんの顔立ちが整っていることを引き合いに食い下がってきた。

「私が志摩くんに恋をしていたら、何か面白いことでもあるんですか」
「どう冷やかしてやろうか想像が膨らみますね」
「いい歳なのにそんなことしか考えられないなんて……」
「私はいつでも少年のような心を忘れていませんよ」
「何百年前の話ですか。ていうか、悪魔に年齢の概念が存在するんですか」
「どうでしょう?ああ、では、隣の彼はどうですか」
「修学旅行の夜じゃないので、そういうことは答えられませんね」
「それは残念。まひるさんの青春時代に少しでも潤いを与えてあげようとこんなに奮闘しているのに」
「私の青春時代に潤いがないこと前提に話を進めないでください」
「では、なにかそういった瑞々しい話題が?」
「……」

このちょっとした沈黙は苦悩している間ではなく、ただメフィストさんに語っていいものかと思案していただけだ。いつもより優しくしつこいこの悪魔へどんな返答をしてやろうかと企んでいただけだ。

「あの、えっと、私、年上が好みなので」
「好みなんて言える立場ですか?」
「メフィストさんはほんとうに余計なことしか言いませんね!」

もう疲れたので、と最終的にはそう言って話を打ち切り、書類を持って立ち上がった。微かに膝が笑っていて、自分の疲労にようやく自覚を持つ。
足の震えに気付かれないようにそろそろとドアを目指していると、メフィストさんに「まひるさん」と呼びとめられた。





振り返ると、メフィストさんの手には一本の鍵が握られていた。それは私も持っている鍵だった。





「門というものはどこにでもあって、なおかつどこにもないものなんですよ。あなたの意思で存在し得るし、存在し得ない。―――解りますね?」






私は、何も言わずに頷いておいた。


mae ato
modoru