56:指先から流れた赤


最上級と言っていた以上、ネイガウス先生にこれ以上の手駒はないだろう。
悔しそうに舌を打ち次の手を繰り出そうとしたときには、体勢を立て直した燐くんが彼の喉元に刀を突き付けていた。

「お前は、何者だ」

燐くんの目の色が違う。完全に敵と認識した眼だ。初めて見たその表情に、距離はあるにも関わらず恐怖を感じる。

それでもなお、ネイガウス先生は腕の魔法円へと手を伸ばしていた。

「先生!もうそれ以上は召喚しない方が身の為です。失血死したいんですか!」

それに気が付いた雪男くんが叫ぶ。雪男くんの言葉に手を止めたネイガウス先生は、歯を食いしばったまま声を絞り出した。

「…私は、」

自嘲気味に笑い、燐くんを―――その青い炎を見やった。

「『青い夜』の生き残りだ…」

青い夜。

知識だけなら、知っていた。
魔神・サタンが十六年前に有力な聖職者を大量虐殺したという大事件。聖職者はみんな、真っ青な炎を身体中から噴出しながら息絶えていったことより付いた名前だ。

「…俺は僅かの間サタンに身体を乗っ取られ…この眼を失い…、そして、俺を救おうと近づいた家族をも失った…」

そっと持ち上げられた眼帯の下には、ひどい傷が残っていた。炎で焼かれたような、そんな傷跡。


―――サタンはこの俺の手を使って、家族を殺した。


「ククク、許さん。サタンも悪魔と名のつくものは全て!!サタンの息子など以ての外だァ!!!!」

静かに言葉を落としていたネイガウス先生は、突然豹変したように目を見張って声を張り上げた。

「貴様は殺す…」

ブツブツと、再び詠唱を始めたネイガウス先生。短くて小さなそれに、ふたりは気付かない。

「この命と引き換えてもな!!」

ずるりと彼の腕から手首の悪魔が飛び出した。


燐くんは、それに抵抗することなく己の腹へそれを受け入れてしまった。


思わず、息を呑んだ。攻撃した当の本人でさえも、その行動に驚いていた。

「…気ィ、すんだかよ」

とても正気ではないその行動に、ネイガウス先生は身を引いた。それと同時に悪魔の手も、燐くんの腹から引き抜かれる。

燐くんは俯いたまま、刀を鞘へと戻していた。

「これでも足んねーっつーんなら…、俺はこーゆーの慣れてっから何度でも……何度でも相手してやる…!!



 だから頼むから、関係ねえ人間巻き込むな!!!!」


必死の表情を浮かべる燐くんと、その言葉に目を見開くネイガウス先生。


「……こんな事で済むものか…、俺のような奴は他にも…いるぞ」

踵を返し出口へと歩みを進め始めたネイガウス先生を見て、私は携帯をポケットへと戻した。







失敗した。彼は、本気にならなかった。ネイガウス先生も続行を断念した。

―――どこか、それを確信していた。


きっと燐くんは死なないだろう。傷つかないだろう。―――怒らないだろう。責めないだろう。

彼はいつまでもやさしいままで、きれいなままで、けして変わらないんだ。



だから、




「だから、いやなんだよ」

独りでも強い彼が。“仲間”を護ろうとする行動が。





「…覚悟するといい…!」

ネイガウス先生がドアを開けて出ていってから、私も下りようかと梯子へ足を伸ばす。
最中ずっと被っていた透明マントを握りしめ、後からやって来た杜山さんとすれ違うようにドアから逃げ出した。


mae ato
modoru