55:幾多という掌が、明確な殺意を


「…先生、何故兄を殺す必要があるんです。…それもまさかフェレス卿の命令だというんですか」

雪男くんの台詞に、現状を推測してみる。

もしかして、ネイガウス先生は屋上におびき寄せる前に燐くんに手を出しちゃったのでは?
それが雪男くんに見つかってしまって、仕方なく屋上へと誘導した……とか。その様子なら燐くんも後から来るだろう。

雪男くんの問いに答えないままブツブツと召喚の言葉を呟いているネイガウス先生を見下ろす。

「行け!」
「!」

その言葉の後に両腕に描かれた大量の魔法円から、大量の人の手首から先が飛び出してきた。ぐろい。
雪男くんはそれらを冷静に銃弾で落としていく。順調かと思ったとき、一体が雪男くんの足を捉えた。バランスを崩して倒れたところをすかさず悪魔が群がってゆく。
迅速な判断でベルトに手を伸ばし、聖水のボトルを取り上げてそれのボタンを押した。聖水が散布され、悪魔は消える。

しかし、ネイガウス先生にとってそれはただの前菜に過ぎなかった。ようやっと起き上がった雪男くんに、遅いと言葉を浴びせかける。
彼の足元には、大きくて細やかな魔法円が広がっていた。

突然、コンパスの針を自らの腕に突き刺した。そのままガリガリと音を立てて手の方へと皮膚を切り裂く。

赤黒い血が、魔法円へと落ちた。

「“視よ、此に在り。屍體のある所には鷲も亦あつまらん!”」

まるで、映画のワンシーンを見ているような心地がしてきた。
だって、あまりにも現実味がなさすぎる。こんな世界、知らない。

だけど、鼻先に届くこの鉄の臭いが私にこれは現実だと教えている。

「…ククク。…コイツはな、私の持ち駒の中でも最上級の屍番犬だ…!」

赤子の泣き声にも似た雄叫びを上げながら、魔法円から現れたのは―――巨大な、屍番犬。ひどい異臭と咆哮が、脳髄を揺さぶる。
屍番犬は巨躯から伸びた手を振りかざし、雪男くんの身体をなぎ払った。コンクリートの上を滑り塀へとぶち当たる雪男くんを見て、ネイガウス先生は不気味に笑う。

雪男くんを、殺してしまうのではなかろうかと嫌な予感がした。

刹那、見覚えのある刀が屍番犬の身体へと突き刺さった。
それを起源とし、屍番犬が青い炎に包まれる。苦しげな悲鳴を上げながら悶える屍番犬。

その上空から、悪魔の姿と化した燐くんが現れた。耳がエルフのように尖り、身体には真っ青な炎を纏っていた。



やっぱり、来ちゃったみたいだ。主役の登場に、手のひらが汗ばんできた。
映画のような興奮なんかではない。―――ただの、緊張だ。



「てめェやっぱし敵か…!!」
「悪魔め…!」

ネイガウス先生は憎らしげにそう呟いて、聖水のボトルのボタンを押した。軽い音を立てて聖水が撒き散らされる。
人間ではない彼にとって、これはおそらく痛い攻撃なのだろう。人間には、分からないが。

真っ向からそれを浴びた燐くんは、目元を押さえながら地面へ倒れこむ。少しばかり顔が焼け爛れたように見えた。

「人の皮を被っていても聖水が効くようだな。やはり本性は隠しきれないというわけだ」
「聖水…?」

何が自分を攻撃したか理解していないようだった。悪魔として攻撃を受けるのは、初めてなのだろうか。

それでも悪魔の回復能力で元に戻ってゆく燐くんを見て、見計らったようにネイガウス先生は屍番犬へと視線を移した。

「化け物め…!」

途端に屍番犬は燐くんに喰らいついた。幾多もある手で燐くんの身体を握り潰そうとする。メキメキと骨の軋む音が聴こえてきた。

やっと、やっと燐くんは本気になってくれるだろうか。もう、見たくない。

携帯を開こうとしたが、視界の隅で黒いコートが蠢いた。見てみれば、雪男くんが魔法円へと駆けていた。彼が足を滑らせれば、チョークで描かれた魔法円の一部が掠れる。
なるほど。魔法円が崩壊すれば、使い魔も消失する。

燐くんを捕らえていた屍番犬は、煙となって消えてしまった。



mae ato
modoru